川又千秋 ショートショート・バラエティ㈪ 1+1=0 目 次  リクエスト・ゾーン  1+1=0  悪魔の使徒  完全犯罪人  同じ誤ち  スペース・ミステリイ  青葉荘綺譚  避けられぬ運命  秀才カプセル  隣町の人々  ホイホイ・スター  おとつい、おいで  害人ハンター  混線タイム  リクエスト・ゾーン 「そうだ、忘れるとこだった!」  夜の補習塾へ出かけようとする良一が、急に大声で叫んだ。 「母さん、ビデオ! ビデオ撮《と》っといてよ。今晩七時半から、≪スターとおしゃべり≫に、青井果林が出るんだ。ねっ、頼んだよ!」  そして、駆け出していく。  母親は、ふう、と肩で大きく息をついた。  浪人生活もこれで二年目だというのに、どうも良一には緊張感が足りないような気がする。  もっとも、去年までは、果林の出る番組があろうものなら、絶対に塾へなど行かず、テレビにかじりついていたものだ。  それを心配して、少しでも勉強に身を入れてくれるなら、と両親は彼のためにビデオ・セットを買い入れたのである。  良一の果林熱は、母親の彼女にも、ちょっと異常に思えるほどのものだった。  青井果林、十九歳、歌手、タレント。  決して一流ではない。それどころか、おととしのデビュー直後をピークに、その人気は、着実に衰えつつある。歌手としても、タレントとしても、中の下といったところだろうか。  ところが、そんな彼女に、息子の良一は今も狂いっぱなしだ。 「なんだ? また、果林か」  七時半が近づき、ビデオをセッティングしはじめた母親を見て、帰宅したばかりの父親が眉《まゆ》をしかめた。 「そうよ、決まってるじゃない。うちには、果林以外のテープなんて一本もないんですから……」  うんざりした口調で、母親が応じる。 「まあ、仕方ないか……他に、趣味があるわけじゃなし……良一のただひとつの楽しみだものなあ。これさえ見せておけば、とにもかくにも、おとなしく勉強してくれるんだから……」 「そうは言ってもねえ……」  二人がぼんやり画面を見つめる内、≪スターとおしゃべり/青井果林の巻≫の放送がはじまった。 「果林さん、この度は、ご婚約おめでとうございます」(と、いきなり、アナウンサー) 「ええ……」(しおらしげに、うつむく果林) 「おい! なんだって!?」  思わず、飲みかけのビールを吹き出して、父親は目を剥いた。 「お相手は、西沢さんとおっしゃいましたね? どのような男性か、ちょっと、ここでご紹介願えますか?」 「……そのう……ごく、平凡な方なんです。芸能界って、やはり、なににつけても、派手じゃありません? だから、あたし、かえって内面的なものを大切に思うようになって……おつきあいしてみて、とても人間的な味わいが感じられる、そんな方なんです……」 「で、挙式のご予定は?」 「ええ……あたしにも、まだやりたいお仕事が残ってますし、だから、余り急ぎませんわ。そう……早くとも、来年の春以降……今は、まず、この秋のミュージカルに全力投球したいんです」 「果林さんにとって、はじめての舞台ですね。では、その挿入歌《そうにゆうか》のひとつ≪幼い恋≫をお聞きください」  インタビューは終わり、果林の歌がはじまった。  しかし、両親は、それを聞くどころではない。 「あ、あなた……ど、どうしましょう……」 「どうしましょうって言われても……だが、今、良一がこんなニュースを知ったら、あいつの事だ、どんなに落ち込むか知れやしない。うーむ……」 「あなた! 消しちゃいましょう。果林の婚約発表なんて、あの子に見せるわけにはいかないわ!」 「しかしなあ……かえって、良一のやつ、怪しむんじゃないか?」  考え込んだ父親が、数分後、はたと膝《ひざ》を打った。 「よし! この際だ。トリックを使おう」 「えっ?」 「確か、お隣の息子さんは、大学でアナウンサー研究会に入ってると言ってたな」  不審がる母親を尻目《しりめ》に、父親は隣家に駆け込んだ。そして、そこの息子を拝み倒して引っ張ってきた。 「いいか、君。このビデオ・デッキには、アフレコ装置がついている。それを使って、アナウンサーの言葉を、別なものに変えて吹き込んでもらいたいんだ」  父親の頼みに、最初は首を傾《かし》げていた彼も、事情を聞いて納得《なつとく》したようだ。  結果、インタビュアーの文句は、次のように入れ換えられた。 「果林さん、また一段と、お美しくなられましたね」  ………… 「ところで、あなたの理想の男性像をお聞かせ願えませんか?」  ………… 「結婚の夢は、いつ頃《ごろ》、実現しそうですか」  ………… 「……では、大ヒットまちがいなしの新曲≪幼い恋≫を……」  …………  塾からもどって来た良一は、少々不自然なところもある録画フィルムを、全く疑いもせず楽しんだようだ。 「そうかあ……果林さんって、やっぱ、考え方のしっかりした人だなあ。つまりは、僕なんかでも、彼女を射とめる望みがあるってことだ」  上機嫌《じようきげん》でつぶやく。 「それに、今度の新曲、アナウンサーの人も言ってるけど、絶対ヒットするね。いい曲だもん。お父さんも、そう思うでしょう?」 「う、うん、もちろんだとも。すぐ、ベストテンに顔を出すさ!」  婚約宣言で、半ば引退を表明したも同じ落ち目の果林の歌がヒットするわけはない。  だが、そう言った手前、父親は引っ込みがつかなくなった。  なんとか良一の気持ちを引き立たせたい一心で、彼は再び一計を案じた。  青井果林が何回か登場したことのある古いベストテンの録画テープを取り寄せ、それにアフレコで音を入れて、あたかも、彼女が再び新曲でヒットチャートを上昇してきたかのような画面をでっち上げたのだ。  良一は、当然、驚喜した。  そのせいか、模擬テストの順位も、一度に三十番近く上昇した。  彼にとっては、青井果林こそが世界の中心だ。他の歌手の事など眼中にない。  だから、父親が「ほら、今週は六位に上がったぞ!」と、その部分だけのでっち上げ録画を見せてやれば、良一は露ほどもそれを疑わずに興奮するのだった。  何週間か、そんな事を続ける内に、父親も次第に、テープ編集、アフレコ技術に熟練してきた。 「どうだ、良一。彼女にファンレターを出してみたら? このベストテンでは、時々、ファンのリクエストカードを読み上げるだろう? おまえの出した葉書が採用されないともかぎらないぞ」  司会者が、手紙を紹介するシーンのテープを手に入れた夜、父親はそんな提案をしてみた。 「そいつはいいや! 僕、早速、出してみる」  とにかく、素直さとひたむきさにかけては、良一の右に出る者はいない。  彼はリクエストカードを書き上げ、それを父親にも見せた。  そして、それをもとに、父親は腕によりをかけ、青井果林の≪幼い恋≫がついに第二位、しかも、そこで良一のリクエストカードが司会者によって読み上げられる、という、大ニセモノ録画を完成させたのだった。 「……またまた上昇、今週、第二位! ≪幼い恋≫に寄せられた声援のひとつをご紹介しましょう。えーと、これは、世田谷区にお住まいの、予備校の学生さん、坂本良一君とおっしゃる……」  読み上げる声は、もちろん、隣家の大学生。だが、それを知るはずもない良一は狂喜した。  その翌々日の全国一斉模擬テストで、良一は、志望校合格率百パーセントを保証される好成績を上げた。  こうなっては、もはや架空ベストテンを打ち切るわけにはいかなくなった。  父親は、テレビ局を駆けずり回り、さまざまな歌謡番組の司会者や、青井果林本人の録画テープを集めまくった。  そしてそれを合成、編集し直し、音を新たに入れ直して、虚構のポップ・シーンを次々に作り上げていったのである。  一方、良一も、いよいよ本番に向けて勉強に拍車がかかった。  両親が与えてくれる�青井果林情報�だけを日々の糧《かて》として、あとは机にしがみついた。  彼にとって、今や、世界はバラ色だった。学業成績はうなぎ昇り。そして、青井果林の新曲第二弾、≪幼い恋≫のB面に入っていた≪あなたを満たして≫も、第一位の栄冠を目の前にしていたのだ。  そんなある日—— 「お父さん、やったぜ!」  一通の封書をかざして、良一が居間に駆け込んできた。 「届いたんだよ、返事が! 青井果林、直筆《じきひつ》の手紙だぜ!」  それを見せられて、父親は青くなった。 「ほら、読んでみて! �……良一さんからのおたより、いつも楽しみにしています。あなたのようなファンを持てて、果林、とても幸せ。春のミュージカルで主役を射とめることができたのも、あなたのはげましのおかげだと思ってます。もっともっと頑張《がんば》ります。だから、良一さんも、受験、ぜったいに成功させて! そうしたら、あたし、あなたに必ずデートを申し込みます。これ、果林の本当の気持ち。約束よ……�」  確かに、そこには、そう書かれていた。  こんな事を続けている内に、父親もいつの間にか、果林に関するエキスパートになっていた。だから、その筆跡が、まちがいなく彼女のものであることを、父親も認めざるを得なかった。 (しかし……そんな馬鹿な!)  青井果林は、ミュージカルの大失敗で完全に引退し、今では、つまらない放送局員かなにかのオカミサンに納まる準備をはじめているはずだ。  その手紙は、父親が良一のために創《つく》り上げた架空の芸能世界においてしか、あり得ないものなのだ。 (隣の大学生か誰《だれ》かが気を利《き》かしたつもりで、こんなイタズラをやらかしたのだろうか?)  しかし、それを確かめる間もなく、入学試験の日はきた。やがて、発表——良一は、第一志望校に悠々《ゆうゆう》合格。家族は、全《すべ》てを忘れて、喜びに沸いた。  しかし、その翌朝、通勤電車の中吊《なかづ》り広告をふと見上げた父親は、そこに、こんな週刊誌の大見出しを見つけて仰天した。   ・ ・   ・ ・ (ま、まさか……)  家へ飛んで帰ってテレビをつけた。  すると、芸能ニュースは全篇、青井果林の話題。「今は、静かに見守って欲しい、と秘密デートへ……」画面にちらりと映った、良一らしい青年の後ろ姿——  その夜、恍惚《こうこつ》たる表情の良一が帰宅したのは、十一時をとうに過ぎてからだった。 「良一、お、おまえ……」  それだけ言って、父親は絶句した。 「へへへ……」  良一は照れたように笑い、テレビの横に積み上げてあるビデオ・テープに手をのばした。  その中の一巻を、デッキに入れる。 「もう、いらないや。だって、本物が僕のそばにいてくれるんだもの。これ、みんな消して、今度は、彼女といっしょに楽しめる映画か何かを録画するんだ」  良一は、ちょうどはじまったミッドナイト・シアターを、そのテープに入れはじめた。 (夢だ……それとも、良一とわたしの思い入れが余りにも激し過ぎて、ビデオ・テープの中だけの架空世界が、ついに現実と入れ替わってしまったとでもいうのか……)  その、父親の直感は実に正しかった。  今や、父親の異常な執念と良一の疑いを知らぬ妄想《もうそう》が、もうひとつの別な現実を築き上げてしまっていたのだ。  しかし、それがやはり、夢にしか過ぎなかったことを、二人はやがて思い知らされなくてはならなくなる。  なぜなら、その別の現実を支えてくれていた父親苦心の架空録画を、良一がせっせと消去しはじめていたのだから…… 1+1=0 「ようこそ、博士。今日はまた、どんな大発見ですかな?」  診察室へ入ってきた男を笑顔で迎え、院長の黒田は椅子《いす》をすすめながらおだやかな声でそう尋ねた。  男の名は巻野。しかし、ここでは、誰《だれ》もが彼を�博士�と呼んでいる。 「うむ……」  博士は威厳たっぷりの仕草で口ひげをひとひねりすると、どっかりそこに腰を下ろした。  そして、相当薄くなりかけている院長の頭をじろじろと観察する。 「いやあ、まいりますなあ……」  博士の視線に気付いた院長は、額にシワをよせると残り少ない髪の毛をなでつけた。 「どうも気苦労のせいか、最近めっきり……。どうです、博士。ご研究の合間に、脱毛防止の特効薬でも発明していただけると助かるんですが」  それを聞いて、博士は「ふん」と鼻を鳴らした。どうやら気分を害したらしい。 「なにをおっしゃる、院長。確かにワシの才能は幅広いが、専門はあくまでも純粋数理哲学ですぞ。そのワシに毛生え薬を発明しろと言うのですかな?」 「おっと、これは失敬」  院長は素直に頭を下げた。 「今のは、ほんの冗談のつもり。どうか、お気になさらずに。それよりも博士、婦長の話では、またなにか大発見をなすったとか……」  巧みに話題をそらす。 「むふふ……まあ、そんなところじゃ」  博士はたちまち相好《そうごう》をくずし、ぐっと胸を張った。 「それは、いったい」  院長はすかさず身を乗りだす。 「よろしいかな、院長……」  博士は思わせぶりにせきばらいひとつすると先を続けた。 「……あなたにおうかがいするが、1たす1は、さあ、いくつになるとお思いじゃ?」 「はあ……」  院長は深刻な表情で宙をにらみ、おもむろに答えた。 「2じゃないでょうか?」 「ふふ……小学校では、そう教えとりますな」  博士は小馬鹿にしたように目を細めた。 「なるほど……」  院長は大げさに溜息《ためいき》をつき、改めて博士を見つめ返した。 「2ではないとすると、では、1たす1は?」 「1+1=0——ワシの新理論では、そうなります」  言い切った博士の両目がぎらりと光った。 「ふうむ……」  うなずき返しながら、院長は机の上のカルテにそっと目を落とした。  そこには、博士がこれまでに�発表�した数々の�新理論�が克明に記録してある。  院長はいずれ、それらを一冊の本にまとめるつもりでいた。 「博士、うかがいましょう、その新理論を——」  ペン皿《ざら》から万年筆を取り上げて、院長はうながした。 「よろしい。では、メモをお願いしますぞ……」  口ひげをひねりながら博士は話しはじめた。 「……いつも申しておる通り、真理というのは、実に思いもよらぬ所にひそんでいるものでしてな。いわゆる、発想の転換なしには、絶対に見つけられはしない。天啓、霊感、インスピレーション……数理哲学者にとって重要なのは、まず、これですわい。つまり、ワシらの仕事というのは、芸術家と同じだと言える……」  長い前置きの後、博士はやっと本題に入った。 「……いや、実に、これはコロンブスの卵じゃった。よろしいか、院長。などをはじめとして、宇宙の原理を解き明かした数式は、皆一様に単純で美しい。ワシは、それを逆に考えてみた。つまり、単純で美しい数式は、即《すなわち》ちそれ自体、なんらかの真理を言いあてているのではないか、とね。……では、最も単純で、しかも美しい数式とはなにか。その時、ワシの頭脳にひらめいたのが1+1=0じゃった」 「…………」  院長はただ黙って、聞き入る。 「1+1=0……これは確かに、一見不条理な等式のように思えるじゃろう。だが、ちょっと待て、これほど単純で美しい式に誤りのあろうはずはない。となれば1+1=0は正しい。その仮定を受け入れてしまえば、あとは筒単じゃった。1+1=0、これを移項してみれば、1=-1となるではないか。そう、つまりじゃ、片一方の1は、実は-1であったわけだ。この発見を元の式に代入してやれば、1+(-1)=1-1=0! どうじゃ、見事なものじゃろうが!」  博士の声が微《かす》かに震えを帯びた。明らかに自分の発見に興奮しているのだ。 「しかしですねえ、博士……」  カルテの上でペンをとめ、院長は慎重に質問した。 「どうして、その片一方の1だけが-1になるんでしょう? 1=-1ということであれば、1+1=-2という等式もあり得るのではないですか?」 「おお! よく、そこに気がついた。さすがは院長!」  博士が顔中を輝かせた。 「そこ——! まさにそこが、大発見の大発見たる核心なのじゃ!」 「と申しますと?」 「1+1、この1が、もしただの1であったなら、答は2になるはずじゃ。ところが、ワシの理論が解明した通り、1は-1でもあり得る。こうなると、1+1の答は、2、0、-2の三通りということになる」 「ええ、まあ……」 「それは、なぜか。ワシは思弁をそこにまで及ぼした。そしてついに真理に行きあたった。この-1とは、つまり、反世界の1なのじゃよ。お分かりか、院長。我々の世界で1と1をたせば2になる。しかし、この計算を反世界で行えば答は-2じゃ。ところが反世界の1とこの世界の1を合わせれば、即《すなわ》ち、答は0となる。どうじゃ! これ以上完璧な推論があり得るだろうか!? 1+1=0の等式、これは実に、反世界の存在を証明するものであったわけじゃ。名付けて、マキノの反対性理論!」  博士は目をむき、口からつばを飛ばし、ついにはわめきだした。 「な、なーるほど……」  院長は複雑な表情を隠すようにうつむいたまま、ペンをカルテに走らせた。 「そればかりではない! この発見に力づけられ、ワシはさらに、1という数字に関する考察を続けてみた。そして、そこから、ブラックホールの実在を証明する、ある確かな糸口をつかんだのじゃ!」 「ブラックホール、ですか?」 「まさに、その通り。むふふ……いいかね、院長。1という数を3で割ると、いくつになるかは、ご存知のはず……」 「0・3333……、でしたな」 「然《しか》り! そして、そこに再び3を掛けあわせる。すると、答は0・9999……。3で割って、3を掛ければ、本当なら元の1にもどるはず。ところが、この1は、もう元にはもどらん。1の一部が、どこかへ消えてしまうのじゃ」 「し、しかしですね、博士。という分数計算なら、答は1……」 「それが、まやかしだと言うておるんじゃ! 計算というのは、ひとつひとつ順序だててやらなアカン! 0・3333……に3を掛けて、どうして、1になるのかね、え? 0・9999……答は、これしかあり得ん!」 「ま、それはともかく、どうしてそれが、ブラックホールに……」 「それじゃよ。ここからが、まさにインスピレーションの世界というわけじゃ。1を3で割る。すると、それまできっちり安定しておった1という数が、極めて不安定な0・3333……という無限数になってしまう。考えてもみなさい。無限数というくらいだから、その尻尾《しつぽ》はとてつもなく長い。そのどこかにブラックホールが待ちかまえていて、数字を二、三個吸い取ってしまうと想像するのは、それほど困難なことではあるまい。え? どうかね、院長。だから、その後で慌てて3を掛けても、もう、1は元にもどれず0・9999……とこうなってしまうわけだ。まさに、数字こそは、この宇宙の根本原理。数式によって証明できぬことなど、なにひとつありはしない。わは、わははははは……」 「うーむ……」  院長は思わず溜息を洩《も》らし、腕を組んだ。  その態度を見て、博士はむっとしたように顔をこわばらせた。 「院長、どうやら、あなたの理解力も、ここまでは追いつけないようですな。ならば、実際的な証明をお目にかけよう」  博士は冷たい声でそう宣言すると、院長の手から万年筆を取り上げ、手近かにあったメモ用紙を一枚破り取った。 「よろしいか……まず、あなたを3で割る……」  言いながら博士は紙にこう書きつけた。   ・ ・   ・ ・ 「そして、これに3を掛ければ……」   ・ ・   ・ ・  その途端、院長のただでさえ寂しかった頭髪がきれいに消滅した。 「な、な、な、なにをする!?」  さすがの院長も、この仕打ちには血相を変えた。  そして、博士から万年筆をもぎ取ると、今度はカルテに同じような計算式をしたためた。その答は——   ・ ・   ・ ・  その瞬間、博士自慢の口ひげが、貧相な無精《ぶしよう》ひげに変わってしまった。 「ひ、ひどいことを! 許しませんぞ!」  再び博士は、院長から万年筆を取りもどした。  そんなやりとりがしばらく続いた後、二人の姿は診察室から消えた。  1+1=0は証明されたのである。  悪魔の使徒  西アフリカ。ボンドボガ地区。  荒れ果てた無人の村。その片隅《かたすみ》の、ワラぶきの教会の前で、ウィリアム・マクー・ビープ牧師は、もう長いこと天を仰ぎ続けていた。  彼がイギリスを出て海を渡り、骨をうずめる覚悟でこの土地にやってきた日から、もう二十年が過ぎようとしていた。  そしてその二十年は、彼の燃えさかる使命感を完全な無力感へと変化させるために、充分すぎる年月であったと言える。  彼は絶望し、打ちひしがれていた。  ことに、最近の状況は余りにも無慈悲で過酷なものだった。  三年続きの大旱魃《だいかんばつ》で、農地や密林は半ば砂漠のように干上《ひあ》がり、動物たちは死に絶えるか他の土地へ移動してしまっていた。  加えて、部族派と革命派の内戦は激化の一途を辿《たど》り、それにつけこんで、超大国や西欧諸国、さらには周辺国までが、無責任な武器援助や干渉を繰り返している。  このままの状態が続けば、遠からぬ将来、ボンドボガは全くの死の世界と化してしまうであろう。 「……主よ」  ビープ牧師は、怒りを秘めたしわがれ声で、灰色の空に呼びかけた。 「あなたは言われた、�今泣いている者は幸福である、やがて神の国で笑って暮らせるであろう�と。しかし、ご覧ください。この、この悲惨を! ボンドボガの民は、恐らく地獄へ墜《お》ちても、そこを天国と錯覚するのではありますまいか。ああ、主よ、こんな言葉があなたを冒涜《ぼうとく》するものであることは知っています。しかし、言わずにはいられません。主よ、これがあなたの試練だとおっしゃるのですか!? だとしたら、わたしはあなたを許せない。なぜ、ボンドボガの民だけが、これほど苦しみ抜かなくてはならないのです!? なぜ、他の民族にも同じ試練をお与えにならないのです!? 分かりません、わたしには、分かりません……」  ビープの声は、つぶやきに変わった。 「……主よ……わたしには、もう、あなたが信じられません。いえ、あなたの存在を疑いはしない。しかし、あなたのやり方が信じられないのです。あなたは�神を験《ため》すな�とおっしゃった……だが、わたしは今こそあなたを験す! どうか、このボンドボガの民を悲惨からお救いください。それができないのなら、わたしはあなたのその教えが、ただあなたの無能の証明にしか過ぎぬと信じる他ない!」  ビープ牧師は両手を天に高々と差し上げ、そして待った。  しかし、その灰色の空は相変わらず、どんよりと押し黙ったまま彼を見下ろすばかりだ。 「主よ、それがあなたの答なのですね? よろしい……今、この瞬間から、わたしはあなたの僕《しもべ》たることをやめる。そして、我が愛するボンドボガの土地と民を救うためなら、悪魔に魂を売り渡すこともいといはしない!」  ビープ牧師が声を張り上げたその直後、空に一条のすさまじい雷光がひらめいた。そして、大地を震わすとてつもない哄笑《こうしよう》が天から降りかかってきたのである。 (……ウワッハッハ……神の無能にようやく気付いたか、ウィリアム・マクー・ビープよ……) (悪魔だ!)  思わず地面にひれ伏しながら、ビープはそう直感した。 (その通り)  即座に、頭の中に答が帰ってきた。 (ビープよ、さあ、願いを言ってみよ!) 「魔王さま! わたしに力を下さい!」  土に顔をこすりつけたまま、ビープは叫んだ。 「わたしに、恵まれぬ民族の願いをかなえる力を与えてください!」 (ムハハハ……なんと、他愛のない。よろしい、その力をおまえに与えよう。ただし、だ……)  悪魔は、ちょっと言葉を切り、それからゆっくりと先を続けた。 (……一民族につき、願いは三つ。それが限度だ。知っておろう、この古くからの悪魔の掟《おきて》を——) 「あ、ありがたき幸せ……」 (……ビープよ……おまえは今より、我が地獄の使徒のひとりに加えられた。さあ、行って、人間共に告げるのだ。神を憎め! さすれば、いかなる民族の願いも、かなえられるであろう……ワハハハハハ……)  笑い声が消えた時、ビープは、自らの内に悪魔の強大な力が宿ったのをはっきりと感じていた。  ビープは荒れ果てた村を出た。  そして、ボンドボガの民を集め、三つの願い事を悪魔に祈るよう呼びかけた。  ボンドボガの人間は意外にあっさりと、彼の言葉を信じた。彼等はすでに、神も悪魔もない極限状況におかれていたからだ。ただ黙って死を待つよりはと、彼らはビープの言葉にすがりついたのである。  彼の教えは枯れ野に広がる野火のようにボンドボガ全体へと波及していった。そして、民族の心はひとつになった。  彼等は祈った。まず第一に、飢えと渇きが一刻も早くいやされんことを——。  そして、第二に、このとめどない戦火が収まり、平和が訪れんことを——。  第三は、彼等民族の悲願、ボンドボガの完全独立——。  ボンドボガの民にとって、これ以外の望みがあろうはずはなかった。そして、その最も切実な願いは、たちまちにしてかなえられた。  三昼夜降り続いた不思議な力を秘めた雨が、川や湖、平野や密林をまたたくまによみがえらせ、動物たちをいずこからともなく呼び寄せた。  そして、それが豊富すぎるほどの食料を彼等にもたらしたのである。  そうなると、憎悪むきだしでいがみあっていた部族派と革本派のわだかまりも、ごく自然に解けはじめ、まるで雨に消されでもしたかのように全土で戦火が収まった。  やがて両派が和解すると、それまでどちらかに肩入れして武器を売りつけようとしていた各国も手を引かざるを得なくなり、東西陣営からの干渉もやがてなくなった。そして、連合政権による独立宣言。  ビープの、そして悪魔の完全な勝利だった。  だが、悪魔の使徒たるビープの仕事は、それで終わったわけではなかった。  彼は魔王の恩に報いるべく、その教えを広めるために、他の民族の願いをかなえて歩かねばならなかったのだ。 〈無能なる神を憎め!〉  このスローガンをかかげて、ウィリアム・マクー・ビープが日本を訪れたのは、その二か月後のことだった。  ビープがなぜ第二の布教国として日本を選んだかと言えば、その理由は簡単だった。  多かれ少なかれキリスト教信者をかかえる各国が、彼の入国を拒否したからだ。  彼に対する反発は、彼の力を最も必要としていると思われる国々の方が強かった。為政者たちは、誰《だれ》もが、彼の力を怖《おそ》れ、警戒した。  その点、日本は事情が違った。  数十万の熱心なキリスト教信者たちが声を揃《そろ》えてビープの来日反対を唱えたけれど、それは、彼を日本に呼んで三つの願いをかなえてもらうべきだという一億の主張にかき消された。  もともと、神も仏もお地蔵様もいっしょくたの日本民族は、悪魔になんの偏見も抱いてはいなかった。  欲得ずくの好奇心だけが、日本人の信じる唯一のものだったのだ。  来日した悪魔の使徒ビープは、その夜テレビの特別番組に出演。ひとくさり、神に対する憎しみをぶちまけた後、おもむろに画面を通して数千万視聴者に呼びかけた。 「さあ、悪魔の名にかけて祈りなさい。日本民族の三つの悲願を——!」  なにしろ、名にしおうコンセンサス国家日本である。大多数の視聴者の願いは、すぐに三つにまとまった。 「こんな、ウサギ小屋じゃなくて、もっと大きな家、そうよ、一戸建ての邸宅に住みたいわ」 「そうなれば、今より、もっと金がいる。でかい屋敷に見合うだけの収入、財産……今の給料の十倍、いやいや、百倍は絶対必要だ」 「するとお次は、地位と名誉。豪邸に住んで富豪暮らしをするからには、それに恥ずかしくない肩書きがいるってもんだ。ただの成金じゃあ、子供だって親を尊敬するはずがない」  家、金、地位……この、全民族の切なる願いは、またしても、たちまちにしてかなえられた。  で、日本がどうなったかって?  決まってるじゃないか。大邸宅が日本列島を隅《すみ》から隅まで埋めつくし、一挙に百倍にふくれ上がった収入は、人類史上空前のインフレを引き起こした。  そして、数百万人の首相、大臣、数千万人の社長、会長、総長、組長……その他もろもろの肩書き人間が、ただもう威張りくさるばかり。  数日後、やっと事態に気付いた人々は、必死になって神に許しを乞《こ》うたけれど、神は今度こそ、本当にそっぽを向いていた。  完全犯罪人 (そうだ! あいつを殺してやろう)  長い時間、ただ髪の毛ばかりを掻《か》きむしっていた推理作家、俵崎憲太郎の手の動きがピタリととまった。 (うん、こいつはいいぞ……あいつなら、確かに殺しがいのある相手だ。あいつをうんと悪者に仕立て上げ、それで鮮やかに復讐《ふくしゆう》する。よしこれでいこう)  俵崎は万年筆をひっつかんだ。そして、徐々に固まりだしたアイデアを、素早くメモ用紙に書きつけていった。  ここは、ホテルの一室。  俵崎は、ある小説雑誌の仕事で、二日前からこの部屋にカンヅメになっていた。  その雑誌は次号で≪密室殺人十人集≫という特集を組むことになっており、ラインナップのひとりに俵崎憲太郎が選ばれていたのだ。  ところが、|〆切《しめき》りがとうに過ぎたというのに、俵崎はアイデアすら思いつけずにいた。  たまりかねた担当編集者が、彼をこのホテルに押し込んでしまったというわけである。  しかし、ホテルへ入っても、出ないものは出ない。  そうでなくとも悩み抜いているのに、編集者の矢の催促が重なって、俵崎のイライラはつのるばかりだ。  俵崎についている編集者は赤松という名前だった。  四十五歳の俵崎より二十近く下の若手だ。つまり、生意気な盛りである。  その赤松が、さっきもこの部屋へ様子を見にやってきた。 「あれェ? ウソでしょ。ほんとに、まだ一行もできてないんですか?」 「…………」(見りゃ分かるだろ、見りゃ) 「まずいなァ、なんとかしてくださいよ。あとの原稿はみんな入っちゃって、残るはセンセだけなんだから」 「…………」(なんとかできりゃあ、とうにしてるわい) 「もう、困っちゃうなァ。表紙は印刷に回った後だし、今さら十人集を九人集にもできないし……」 「…………」(く、くそっ、うるさいやつだ) 「いいですか、センセ。今夜、今夜いっぱいが限度ですよ。明日の朝一番で原稿が入らないと、センセの頁《ページ》は、白いままってことになってしまう。まあ、作品全文を読者に推理させるっていう趣向なら、それでも構いませんがね」 「…………」(な、な、な、なんて嫌味《いやみ》を言いやがるんだ、こいつめ) 「とにかく、頼みます。今夜はね、僕も隣に部屋をとって見張ってますから、昨日みたいに逃げ出して飲みに行こうったってそうはさせませんよ」 「…………」(よけいなことを思いつきおって) 「このね、十人集の企画は、僕が提案したものなんです。心配だなあ。センセがなんとかしてくれないと、僕はもう編集長に顔向けできやしない。首でもくくらなくっちゃあ」 「…………」(勝手にくくれ、今すぐくくりやがれ) 「じゃ、僕は隣で待機してます。しばらくは、邪魔しませんから、お願いしますよ。あとで様子を見にきますけど、なんとか、よろしく」  喋《しやべ》りまくって、赤松は出ていった。  その一時間ほど後——  俵崎は、壁一枚隔てた赤松の部屋から、女の声が洩《も》れてくるのに気付いて目をむいた。 (あ、あの野郎! まさか、部屋で、女と会ってるんじゃあるまいな? いや、赤松なら、やりかねない。なにしろ、あいつは、ワシの中学生の娘にまで色目をつかいやがった男だ)  それはただ、俵崎の家へ訪ねてきた赤松が、彼女と玄関で立ち話をしていただけのことなのだが、親馬鹿の俵崎は、それ以来すっかり、若手の編集者を警戒するようになっていたのだ。  女の声はなおも聞こえてくる。  俵崎の胸の中で、怒りの炎がメラメラと燃えあがった。 (まったく、許せん! ワシを見張るとかなんとか称しながら、実は、他に目的があったんじゃないのか!?)  そう考えだすと、キリがない。妄想《もうそう》が次から次へと湧《わ》きあがってくる。 (あんなやつ、ほんとに首でもくくってしまえばいいんだ)  そう思った瞬間ひらめいたのが、待ち望んでいた小説のアイデアだった。 (そうだ! あいつを殺してやろう)  つまり、怒りが殺意に、殺意がアイデアに転化したのだ。  与えられているテーマは、密室殺人。  自動ロックやドア・チェーンのあるホテルのシングル・ルームは、まさに願ってもない密室である。  そしてそこには、憎《に》っくき編集者が泊っている。 (いいぞ、いいぞ……あの赤松をモデルにすれば、殺人の方法など、いくらでも思いつけるわい)  俵崎は、筋立てをまとめにかかった。  もうこうなったら、徹底的にモデル小説でいった方がいい。 (よし、主人公はワシ本人でいこう。しかし、実名はまずいから、俵崎じゃなくて、田原とでもしておくか……)  田原健造は第一線の中堅推理作家。非常に緻密《ちみつ》な作風からもうかがえるように、温厚誠実な人物である。  彼のなによりの自慢は、手塩にかけて育て上げた美貌《びぼう》のひとり娘、咲子。  ところが、その娘の世間知らずにつけこんで、ズウズウしくも魔手をのばしてきた悪徳編集者がいた。その名は、赤松……じゃなくて、青杉。 (イッヒッヒ……こいつはいい)  さて、青杉の心が見抜けないウブな咲子は、素敵な恋を夢見て彼に熱を上げる。ところが、ある日、その青杉が他の女と密会している現場を目撃して、自分がただ単にもてあそばれていたことを知ったのであった。  涙とともに全《すべ》てを打ち明ける咲子。  それを聞き、怒りに燃えて復讐を決意する父の健造。  やがて、その機会はめぐってきた。  健造が仕事をしている同じホテルに、青杉が部屋をとったのだ。  青杉は臆病《おくびよう》な性格で、ホテルに泊る時は、必ずドア・チェーンを忘れない。また、昔からの不眠体質で、睡眠薬をいつも持ち歩いていた。  健造は、そんな青杉の癖を利用した密室完全犯罪を思いつく。  そして深夜、青杉の部屋を訪ねた健造は、チェーンごしに、洋酒のハーフ・ボトルを一本彼に差し入れた。その中には、巧妙な方法で、青杉が常用していると同じ種類の睡眠薬が混入してある。  そうとも知らず、酒好きの青杉は喜んで洋酒を受け取った。  そして部屋へとってかえした健造は、ホテルのメモ用紙に、ある文章を書きつけた。 「もう、仕事に疲れた。女の関係も清算したい……」そんな内容だ。  筆跡は、咲子に届いたラブレターの文字をひとつひとつなぞり、完全に青杉のものと似せてある。よほどの事がない限り、疑われる心配のない出来映えだ。  これぞ、青杉の遺書というわけだ。  時間を見計らって青杉の部屋の前へもどると、中からは、明らかに異常な彼のイビキが聞こえてくる。  彼が、やがて死に至る眠りに就いたのは明らかだ。  健造は、メモ用紙についた指紋を拭《ぬぐ》い取り、それをそっと、ドアの隙間から室内に滑り込ませたのであった……。  ……全五十八枚。  俵崎は、それを一気に書き上げた。  まあ、自分でもそれほど鋭いアイデアとは思わないが、憎悪がこもっているだけに、描写の方はなかなかの迫力だ。  原稿を読み返して、彼は満足の吐息を洩らした。 (赤松の奴《やつ》、さぞ驚くことだろう)  その様子を想像して、俵崎はひとり口元をゆるめた。  時計を見ると、もういつの間にか朝の七時を回っていた。  丸一晩、休みなしに働いたわけだ。さすがに疲労が重くのしかかってくる。  だが、それにしても、赤松はどうしたのだろう? 俵崎は眉《まゆ》をしかめた。  途中で様子を見にくるなどと言いながら、ついに一度も顔を見せなかったではないか。 (くそっ、なんて奴だ!)  それまでは、赤松が来る毎《ごと》に「邪魔だから、そうしょっちゅう来ないでくれ」などと文句を言っていたことも忘れて、俵崎は怒りだした。  そして、電話に手をのばすと、彼の部屋の内線番号を回した。しかし、誰も出ない。 (な、なんてことだ!)  俵崎は部屋を出て、赤松のドアをどんどんとノックした。だが、反応はない。 (熟睡しているのか、それとも、外出したままもどってこないのか……)  怒り心頭に発した俵崎は、部屋へもどり、今度は直接、雑誌の編集長宅へ電話をいれた。  そして、自分は原稿をとうに書き上げたのに、赤松がそれを取りにもこない、と散々にわめき散らした。 「まったく申し訳ない。赤松には厳重に注意しましょう。すぐ、かわりの者を取りに行かせますから、どうかお気を静めて……」  編集長にとりなされて、俵崎の腹立ちもようやく少しだけ収まった。  原稿はドアの外へ出しておくことにして、俵崎は電話を切った。  とにかく、今は眠りたい。  原稿といっしょにの札をドアの外に出し、俵崎はベッドにもぐり込んだ。  それから数時間後……俵崎は激しいノックの音で、その眠りを破られた。 「くそっ、なんだっていうんだ。起こすなと書いてあるのが読めんのか」  ぶつぶつ言いながらドアを開いた俵崎は、その鼻先に、いきなり警察手帳を突きつけられてぎょうてんした。 「いや、お休み中、申し訳ない」  頭を掻きながら、刑事が言った。 「実は、隣で自殺者がでたもので」 「自殺!?」 「ええ、赤松という出版社員なんですが……」 「ま、まさか。彼は、ワシの仕事につきあっていた編集者だ!」 「らしいですな。そのことはもう、出版社に問い合わせました」 「だ、だが、なぜ!? 昨日までそんな様子はまるでなかったのに」 「ま、発作的なものでしょうな。とにかく、自殺であることはまちがいない。なにしろ、ドア・チェーンのかかった室内ですから。それに遺書も見つかっているんです。ホテルのメモ用紙に走り書きしたものが、床に落ちてましてね……」  刑事は首をふりふりつけ加えた。 「どうやら、仕事や女性関係で悩んでいたようですよ。昨夜、彼のところへ打ち合わせにきた同僚の女性編集者に、だいぶ、いろいろこぼしていたらしい」 「仕事……女……ば、ばかな! で、自殺の方法は?」 「常用している睡眠薬を、ウィスキーといっしょに多量に飲み下しちまったんですな。ま、最初から少し酔っぱらってたのかもしれません。なにしろ、ボトル一本、丸丸|空《あ》いてましたから」 「ば、ばかな、ばかな!」  俵崎は慌ててドアの下を見た。  だがもちろん、原稿はとうに持ち去られたあとだった。  俵崎の身体がガタガタと震え出した。  これから身の潔白を証明するためには、五十八枚どころか長篇小説が一冊や二冊は必要だろう。それも、とびきりのアイデアを使ったやつが……  同じ誤ち 「残念ながら、国王……」  イブン・バルク・ラマハーン四世の顔色をうかがいつつ、大臣のアブー・アフバルは、こめかみから流れ落ちる冷汗をそっと拭《ぬぐ》った。 「……どうやら、ザリーファ王妃は、すでに隣国サウジアラビアへ逃亡したものと思われます」  ラマハーン四世の渋面がさらに歪《ゆが》んだ。  ここは、中東の小国アラジーナ——  わずかながら産出する石油で国内経済はまずまずうるおっており、昔ながらの絶対的な王制も安定している。  国際政治の変動から取り残されてしまったようなこのアラジーナに、今のところ、国王を悩ますような問題はなにひとつ起こりようがなかった。  ただ、彼個人の問題を除いては—— 「まったく、ワシは、なんという愚か者だろう……」  ラマハーン四世は天をあおいで嘆息を洩《も》らした。 「最初の妻シャイターナは、絶世の美女には違いなかったが、頭の中は完全な空《から》っぽ。それをようやく追い出してめとった第二の正妻マーリドは、とんでもない性悪《しようわる》女。今度こそはと探しあてたザリーファは、頭も気立てもよかったが、なにしろ、あの派手好きな性格だ。こんな田舎《いなか》の小国にいては、ファッション感覚が鈍ってしまうとかなんとか言い出しおって、一年の大半をパリ暮らし。挙句《あげく》の果てに、イギリス人|諜報《ちようほう》員と手に手を取って駈《か》け落ちとは……」 「まったく、なんとおなぐさめしてよいものやら……」  大臣アフバルも、身の置きどころがない有様。 「もともと女とは、そういう下劣な生き物なのでございますよ。私めも、結婚以来、女房にはホトホト手を焼いておりまして……なんとか別れたいとは願っても、私には国王のような御力がありません。別れ話など持ち出したら、どんな目にあわされるか……」  アフバルは、必死で、自分の結婚生活の惨《みじ》めさを国王に訴え、それでラマハーンの気を少しでも晴らそうとする。 「しかし、不思議なものよのう……」  ラマハーンは首を振り振り大臣につぶやいた。 「最初の妻ですっかりこりたワシは、結婚などもう二度とすまいと心に誓った。ところがしばらくするとその決心がぐらつき、マーリドと結婚。それでまたも煮え湯を呑《の》まされながら、次はザリーファだ。一度ならず、二度、三度と同じ誤ちを繰り返してしまった。この愚かしさを、いったい、どう説明すればよいのだ……」 「いえ、国王。それは男なら、誰《だれ》でも同じでございましょう」  大臣のアフバルも、神妙な顔つきでラマハーンにうなずき返した。 「一度、結婚を経験した男なら、誰でもこんな誤ちは二度と繰り返すまいと悟るはずです。ところが、その知恵はすぐに忘れられ、決して後世には伝わらない。若い男女は次々に結婚し、またぞろ同じ悲劇の繰り返しです」  アフバルは首をかしげ、言葉を継いだ。 「考えてみると結婚とは、戦争とよく似ているのではありますまいか。どの国も、一度戦争を経験した直後は、もう二度と戦争などはすまい、こんな悲惨は絶対に繰り返すまいと考えます。しかし、にもかかわらず、この地球上に戦争が絶えたことはありません。結婚も戦争も、たとえ何度経験しようと決してそこからは逃れられぬ、人間の悲しい宿命と申せましょう」 「ふーむ……」  大臣の言葉を耳にして、国王ラマハーン四世の眉《まゆ》がぴくりと動いた。 「そう言えばワシは、東洋のニッポンとかいう国が、その戦争にこりて、もう二度と同じ誤ちは繰り返すまいと、憲法で戦争放棄を宣言したという話を聞いたことがあるぞ」 「確かに、確かにその通りでございます。私もそれは聞き及んでおります。ニッポンは、世界ではじめて、そして唯一、戦争を完全に放棄した国家として、我が国の教科書にも紹介されております」 「ふーむ……」  ラマハーン四世の眉が、またぴくりぴくりと上下した。 「大臣! それだ。それこそ、我がアラジーナのとるべき道だ!」  突然の大音声《だいおんじよう》に驚き、大臣は一歩王座から後退《あとずさ》り、恐る恐る訊《き》き返した。 「……とるべき道とおっしゃいますと? しかし我が国は、どうせ軍隊は貧弱ですし、戦争など今のところ、全く起こる心配は……」 「違う、違う! 戦争ではない。結婚だ! 結婚を放棄するのだ!」 「は、はあ……」 「戦争も結婚も、同じようなものだと言ったのはそちではないか。人類が同じ誤ちを繰り返し続けているのは、このふたつだ、と……」 「し、しかし、それは……」 「いや、ワシは決心した。我が国も、そのニッポンとかいう国の勇気を見ならい、人類積年の悲惨を根絶すべく、世界に先駆けるべきだ」 「ほ、本当に……」 「もちろん、ワシは本気だ! 我がアラジーナは、今後永久に、子孫存続のための手段としての結婚は、これを全面的に禁止する! 大臣、直ちに憲法公布の準備をはじめたまえ!」  大変なことになったものだと慌てる一方、大臣アフバルの胸の内には、これで悪妻にひと泡《あわ》吹かせてやれそうだという痛快な期待もなくはなかった。  なにしろ、言い出したのは、三番目の妻に駈け落ちされたばかりの国王である。それをいさめることのできる臣下など、この国にはひとりもいるはずがない。  果たして、国王の決心は、すんなりと閣僚全員の同意を得た。  昔から、表面的には家父長制が支配しているアラジーナも、裏を返せば、家庭を取りしきっているのは女たちであり、男どもは、その尻《しり》に敷かれ続けている。  しかし、この憲法さえ発布されれば、女たちはたちまち妻という強力な権力の座を失うこととなり、本当の意味での男権が復活するに違いない……男たちの思いは皆同じだった。  それが、国王の傷心をなぐさめなくてはという大義名分と結びついて、国民も、その憲法の主旨を認めないわけにはいかなかった。  そして、アラジーナは、結婚放棄宣言を全世界に対して行なった。  ただちに憲法の精神にのっとり、結婚の悪をアラジーナの国内から追放する国民運動が繰り広げられた。  結婚を讃美《さんび》するような書物やフィルムは、すべて焼き払われ、しつこく抵抗した恋愛詩人は国外に追放された。  女たちは妻の座を追われ、めしつかい同然の境遇に甘んじなくてはならなくなった。  しかし、その女たちから、憲法反対の声はほとんど起こらなかった。  男たちの政治に口出ししてはいけないというのがこの国古来の伝統であったし、それよりも女たちは、こんなことが長く続くはずはないと信じきっているふしもあった。  憲法発布の当初……結婚から解放された既婚者たちの活気で、アラジーナの国勢は上向いた。  ラマハーン四世は鼻高々である。  戦争をきっぱり放棄したニッポンという国も、以後、驚異的な発展を遂げて世界の大国に仲間入りしたという話だ。  となると、人類のもうひとつの誤ちと手を切ったアラジーナも、いずれは中東の小国たる地位から脱することができるのではないか……彼の胸の中では、そんな夢すらふくらみはじめていた。  しかし、事はそう順調には運ばなかった。  一年、二年と経つうちに、アラジーナの国内がなんとなくぎくしゃくしはじめた。  そして、やがて�結婚を知らない子供たち�が憲法そのものに疑問を表明しはじめた。  最初は、大人たちも、そんな彼等をさとし、なだめ、熱心に結婚の悪を教育しようと努めていた。  だがしかし、恋愛自由化を求める青年たちの声は、そんなことでは食い止めようがないほど大きなものになりはじめていた。  なにより彼等は、結婚というものを知らなかった。  そして、彼等の背後には、若くて魅力的な乙女《おとめ》たちの応援がついていた。青年たちも、張り切らざるを得なかったわけだ。  そうした運動はやがて、不穏な情勢を国内にもたらすまで発展した。  憲法を無視して、自主結婚式を挙げるカップルも続出し、それを摘発、弾圧すると、青年たちの反発もなおさらに高まった。  そのうち、大人たちの間にも、青年の主張に同調する者が現われた。  国論はまっぷたつに割れ、内乱の危機さえささやかれはじめた。  事ここに至って、ラマハーン四世も、ついに強硬姿勢を改める決定を下した。  まず、結婚へはつながらぬ限定的恋愛権が認められ、それからはせきを切ったように自由化の波が広がった。  ラマハーン四世の、人類はじまって以来の英断も、こうして十年を経ずにくじかれた。  そして彼自身も、いつしか、また同じ誤ち、新たな恋心を、ある女性に対して抱きはじめていたのだ。  アラジーナの結婚放棄宣言が撤回されたのは一九八×年三月のことだった。  そしてこの同じ年、人類のもうひとつの悪に対する防波堤もまた崩れ去った。  憲法を改正した東洋の国ニッポンが、国外の紛争地域へと、自衛の主張のもとに堂堂の派兵を開始したのだ。  スペース・ミステリイ  目が覚めた。冷凍睡眠《コールド・スリープ》が解けたのだ。  一等航宙士ハンは、コールド・カプセルの中で身じろぎしながら、キャノピーが開くのを待った。それは、解凍が完了すると自動的にオープンするようになっている。  ここは、恒星間輸送船《スター・カーゴ》イクワラナドール㈽世号の船内。  乗員は船長のタイラを含めて四人。マイドン第三惑星へ、特産のアイドニウム鉱を積み込みに向かう途中である。つまり、今は空荷《からに》の旅だ。  片道、地球時間で五か月かかる。  五か月といえば、たったの四人でも、相当の食料や酸素を消費する。それを節約するために、なにか必要が生じない限り、当直の一人を残してあと三人は、冷凍睡眠装置《コールド・スリープ・システム》の中で完全に生体機能を凍結しておくことになっている。  当直は一週間交代。四人全員が順番で行なう。  キャノピーが開くのを待ちながら、ハンは目玉を動かして、カプセル内部で光っている経過時間のデジタル表示を読んだ。  出発してから、ちょうど七十二日と六時間二十一分が過ぎたところだ。  今、当直にあたっているのはタイラ船長であるはずだ。  ハンの順番は船長の次。七十七日目から七日間だ。  それまでに、まだかなり時間が残っている。おかしい。  ということは、彼が目覚めなくてはならないような緊急事態が発生したということだろうか。  万が一、当直者に何かが起こると、コンピューターは、自動的に、次の当直者を覚醒《かくせい》させる。  また、当直の者が、特定の誰かの手を借りようと思ったら、その人間が入っているカプセルの解凍ボタンを押せばいい。  まだ当直に間のある彼が目覚めさせられたということは、そのいずれかだということだ。 (また、タイラの奴。俺《おれ》に面倒な作業を押しつけるつもりじゃあるまいな)  ハンは、軽く舌打ちした。  七十二日目ということは、ちょうど、アイララツアの中継ステーションの近傍を通過中のはずだ。  ステーションから、宇宙震警報でも入ったのだろうか……などと考えているうちに、キャノピーがシュッと音をたてて開いた。  ハンは、カプセルから片足を踏み出し、船橋《ブリツジ》を見回した。  次の瞬間、彼は思わず飛び上がり、拍子に頭をカプセルの縁にいやというほど打ちつけた。 「タイラ……船長……」  それは、確かに船長だった。それ以外の人間であろうはずがない。その船長が、胸にナイフを突きたてて、あおむけに船橋《ブリツジ》の床に倒れていたのである。  まだ微《かす》かに息はある。しかし、見開かれた目は、もはや何も見ていない。  ハンは駆け寄った。 「船長! どうしたんです? 誰《だれ》にやられたんですか!?」  抱き起こそうとして気がついた。タイラ船長の胸に突きささっているのは、間違えるはずもない、ハンが昔から愛用していた大型ナイフだったのである。 (あっ!)  彼は咄嗟《とつさ》にそれを抜き取った。 (どういうことだ!?)  まず頭に浮かんだのは、これがハンに殺人の罪を着せようとする誰かの罠《わな》ではないか、ということだ。  誰かが船長を刺殺しておいて、その上でハンの解凍ボタンを押し、彼が覚醒する前に、知らぬ顔で自分のカプセルにもどったのだ。そうに違いない。  その誰かとは、他の二人の乗組員のどららか以外であるはずがない。  ここは、虚無の中を飛ぶ恒星船《スター・シップ》の船内である。この完全な密室の中にいる人間は四人だけ。  うち一人は、今、断末魔の痙攣《けいれん》に喘《あえ》いでいる。  もう一人は、ハン自身だ。しかし、彼に覚えはない。  残るは二人。医師のクロスと、機関技師のホランだ。  さて、どちらか——  ハンが首をひねったその時、船橋《ブリッジ》右側にある亜空間波受信器が、緊急入信のけたたましいブザー音を鳴り響かせはじめた。  呼んでいるのはアイララツアの中継ステーションであろう。  しかし、今、それに応答すれば、殺人を自白するも同じことだ。  なにしろ、他の二人はコールド・カプセルの中。そして彼一人が覚醒していて、手にナイフを握っているのだ。 (冗談じゃない。はめられてたまるか!)  ハンは、ナイフにこびりついた血を拭《ぬぐ》い、それを、自分のベルトの間に隠すと、あたりを見回した。  と、壁際のクロス医師のメディカル・キャビネットが目に入った。  犯人はクロスか、ホランか、二人に一人。  怪しいといえば、二人ともだ。なにしろ、性悪《しようわる》な船長タイラは、誰からも憎まれ、恨まれていた。  もちろん、ハン自身にも動機なら山とある。だからこそ真犯人は、ハンを罠にはめようと考えたのだろう。  ハンは、クロス医師のキャビネットに飛びついた。  中を探ると、鋭利なメスがでてくる。こんな原始的な医療具を使う場合などまずあり得ないが、多くの医師が、いまだにその象徴的な刃物を持ち歩いている。一種のフェティシズムであろうか。  どうあれ、それは好都合だった。  ハンは駆けもどり、そのメスで船長の喉《のど》をかき切った。そして新たに流れ出した血を死体の指になすりつけ、それで床に�クロス�と大きく書きつけた。  敵がナイフでくるなら、こっちは血文字だ。  それから、クロス医師のカプセルに走り寄り、覚醒ボタンを押してから、今度は自分のカプセルに飛び込んでキャノピーを閉じた。急速冷凍装置の働きで、ハンはたちまちコールド・スリープにおちる。  かわって目を覚ましたクロス医師が驚くまいことか。  緊急通信ブザーがわめき散らす中、船長が胸と喉をざっくり割られ、しかも床には�クロス�の血文字がくっきりと塗りたくってあるのである。  そのそばには、彼の愛玩《あいがん》する二十世紀もののメスが落ちている。 (罠だ!)  彼は直感した。すぐにメスをひろってキャビネットに隠すと、床の四文字を足でこそげ取ろうとした。しかし——それにしても—— (くそっ! 誰が一体……)  怒り狂って顔を上げた先に、ホランのマルチ・サバイバル・スーツが置いてあった。  未知の惑星に不時着しても生き抜けるよう、そのスーツには各種高性能武器が装着してある。  クロス医師はそれに飛びつき、腰のホルスターから熱線銃を抜き取った。  そのグリップには、ホランの名が彫りつけてある。パワーを調節し、それで床の血文字といっしょに、船長の死体を半分ほど焼き払う。  特に、メスで切られたらしい外傷は、跡形がなくなるまで入念に灰にした。  そして、それをホランのカプセルの前に放り出し、彼の覚醒ボタンを押してから、慌てて自分のカプセルにもどった。そして、急速冷凍装置のスイッチを入れ、目を閉じる。  これでともかく罠は逃れた。緊急通信には、ホランが応答してくれることだろう。目を覚ましたホランは、船内にただよう異臭と煙で仰天した。  カプセルから飛び出そうとして、自分の熱線銃につまずいた。目を上げると、それで殺《や》られたと思われる船長の半焼け死体。 (こいつは、罠だ!)  本能的にそう悟った。  彼は、自分の熱線銃を船外廃棄シュートに叩《たた》き込み、他の二人、クロス医師とハン航宙士の熱線銃を持ってきた。  一丁を、白骨がむきだしになっている船長の手に握らせ、その熱線で、壁に、�ハン�と焼き印ならぬ焼き文字を書きつけた。そうしておいて、ハンの熱線銃で、船長の死体をもっと徹底的に焼きつくす。  船長が誰かと銃でやりあい、死に際に、相手の名を壁に焼きつけたと思わせようという寸法である。  熱線銃を放り出し、ハンの覚醒ボタンを押して、ホランは、自分のカプセルに逃げ帰った。  目を覚まして、ハンは気も狂わんばかりに慌てた。  緊急通信の呼び出しブザーは、いよいよ大きくなっている。もうすぐ、亜空間波による映像伝達可能圏内に入る。  そうなる前に、馬鹿げた証拠は全《すべ》て始末しておかなくてはならない。  敵も必死なら、ハンも必死だ。こんなことで船長殺しの汚名をかぶせられてはたまらない。  彼は、特殊溶解|手榴弾《てりゆうだん》を壁に投げつけて自分の名前を消し、クロス医師の、大型獣用レーザー・メスを引きずり出して、タイラ船長の燃え残りの死体を切り刻んだ。  そして、それを放り出し、ボタンを押し、カプセルにもどり……  次に目覚めた時、船内はガレキの山と化していた。そして、あちこちから、猛火が吹き出している。船長の死体など、もはや見分けられないほどの惨状だ。  非常事態を知らせるコンピューターの金切り声。もちろん、コールド・スリープ・システムは、全て停止。全員が覚醒させられていた。  自動消火装置から吹き出す消火剤の飛沫《ひまつ》を浴びながら、三人の顔があった。 「き、きさま!」 「おまえが、やったのか!?」 「この、殺人者め!」  三人三様に罵声《ばせい》を吐き出す。  その時、どこがどうショートしたものか、アイララツアからの緊急通信が、イクワラナドール㈽世号の艦橋《ブリツジ》につながった。  ヴィジ・スクリーンに、アイララツアの基地員の顔が大写しになる。 「い、いったい、どうしたんだ? 呼び出しにも応じないで! その有様はなんだ!?」  司令官と思われる男が、わめいた。 「そ、そ、それが、実は……」  クロスがしどろもどろになってつぶやく。 「それより、船長はどうした! 無事か?」 「せ、船長ですか? さ、さあ……無事かって言われても……」  ハンが泣き声になる。 「船長は無事か、と訊《き》いてるんだ」 「もちろん、その、元気でいられますが……」  ホランが必死で答えた。 「じ、じつは、ちょっと事故がありまして。船長は今、その、ええ……ケガで、休んでおりまして」 「それなら、いいが……」  眉《まゆ》をひそめつつも、司令官はうなずいた。 「……では、思いとどまったというわけか」 「思いとどまった?」  今度は三人が声をそろえて訊き返した。 「そうとも。自分は、みんなに嫌《きら》われている。こんなことでは、到底船長など続けられぬ。今すぐ、ここで自殺するとかなんとか、わけの分からぬことをわめき散らしたかと思うと急にそれきり通信が切れてしまい、心配していたのだが……。そうか。思いとどまってくれたか。よかった。それは、よかった。ならば、難問は解決だ」  三人にとって、難問を解くのはこれからだった。  ある倒産 「……わかっちょる。ワシは、もう長くない」  枕辺《まくらべ》に集まった三人の息子を順に見渡してから、平田忠二郎はゆっくりとそう言った。 「そんな! 気の弱いことを。父さんらしくもない」  長男の忠雄が、慌てて忠二郎の手を握った。 「そうですとも。医者《せんせい》だって、軽い心臓発作だから、なにも心配はないと……」 「必ずよくなりますよ、父さん。すぐ退院できるに決まってます」  二男の忠茂、三男の忠正も声をそろえる。  しかし忠二郎は、(いや、いや……)という風に首を横に振った。 「気休めを言うてくれるな。自分の身体は、自分が一番よう知っとる。ワシも今年で八十八じゃ。とうに覚悟はできとった。これ以上、この世に未練も残っとらん……」  つぶやく声は、まだ意外にしっかりしている。しかも、その調子には、まぎれもない本物の満足感すらこめられていた。  確かに——  誰の目から見ても、平田忠二郎の生涯《しようがい》に不足があろうとは思えなかった。  愛知県の片|田舎《いなか》で細々と雑貨を商うだけだった平田商店を、ただの一代で中京地区第二位の百貨店≪セントラル平忠≫に育てあげたその業績は、尾張商人の鑑《かがみ》として、今も郷里の語り草になっているほどだ。  そんな立志伝中の人物を絵に描いたような彼が会長に退いてからもう十年。  かわって社長の座を継いだ忠雄を中心に、兄弟三人力を合わせ、セントラル平忠の発展はなおも続いている。  今のところ、一族の将来に憂いらしきものは一点も見つからない。  となれば、思い残すことなしと言う忠二郎の感慨も、むしろ当然のことかもしれなかった。 「ところで、おまえたち……」  また三人を順に見渡しながら、忠二郎が口を開いた。 「今日おまえたちに集まってもらったのには、わけがある。実は、おまえたちにどうしても聞いておいてもらわねばならん話があるんじゃよ」  遺産分けに関することか、と一瞬緊張がその場にみなぎった。  しかし、考えてみれば、遺言状はとうの昔に彼等も立ち合いの上で作成され、弁護士に預けたままになっているはず。  今さらそれを訂正する理由も、必要もあるとは思えない。 (となると……)  三人はいぶかし気に父親の顔をのぞきこみ、次の言葉を待った。 「皆も知っているように、おまえたちのジイさん、つまりわしのオヤジは、ワシが二十三の年に死んだ。ワシには兄貴がおったのだが、これが中支方面で戦死してしまって、結局ワシが、平田商店の跡を継ぐしかなかったわけじゃ……」  三人はいっせいにうなずく。 「だが、しかし、もともと商才のなかったワシは、あれこれ頭を使ったつもりで、なにもかもが裏目。悪いことは重なるもので、母さんまでが風邪《かぜ》をこじらせてポックリいってしまった。あれはちょうど、長男の忠雄が七つになったばかりの頃《ころ》じゃ、とうとうにっちもさっちもいかなくなって、ワシは本気で一家心中を考えとった……」  それは、忠二郎お得意の自慢話だった。  そんな彼が、ある夜思いついたアイデアから運をつかみ、やがてはデパート業界へ乗り出してゆくというサクセス・ストーリーは、三人とも耳にタコができるほど聞かされていた。  この最期の時に、またそれをひとくさり繰り返したいのか、と三人は少々うんざりした気分になりかかった。  と、そこから先、いきなり忠二郎が、いつもと違う奇妙な事を言いだしたのだ。 「……いよいよ、夜逃げか一家心中かを選ばにゃならんというその晩、ワシは神も仏もあるものか、こうなったら悪魔にでもなんでも身売りしたい、とただもう天を恨み、地に掻《か》きくどいておった。そこに、あやつが、ボワーン! と現われてきたのじゃよ……」 「あやつ?」  三人が声をそろえて訊《き》き返した。 「そう……本物の悪魔が、ワシの祈りを聞きつけてやってきてしまったんじゃ」 「…………」呆気《あつけ》にとられる兄弟。  それに構わず、忠二郎は続ける。 「�悪魔との取り引きについては、知っておるだろうな?�とその黒い尻尾《しつぽ》の悪魔は言った。�おまえの望みをなんでもかなえてやる。そのかわり、俺《おれ》はおまえの死後の魂をもらう。契約の条件はこれだけだ。さあ、どうする�……悪魔は、ワシに、そうささやいたんじゃよ」 「父さん! 気を確かに」  忠雄が叫んだ。  しかし、忠二郎の声は、依然としてしっかりしている。 「んにゃ、これは全部、本当のことだ。まあ、聞きなさい。ワラにでも、糸クズにでもすがりつきたかったこのワシじゃ。悪魔だろうとなんだろうと構やしない。ワシは、あやつの前にひれ伏して言った。�ワシの魂のひとつやふたつ、どうにでもしてください。そのかわり、なんとか、お助けを……�こう頼み込んだのじゃ。  ところが、あやつ、そんなワシをじっと見下ろしていたかと思うと、急に顔をしかめてこう言いおった。�うーむ、ちょっと待て。今、のぞいてみたが、おまえの、その魂はなんじゃ!? まるでスカスカではないか! 重みというものがほとんどない。そんな魂と引きかえに願いをかなえてやったんでは、とうてい割に合わん。悪いがこの話、なかったことにしてもらおう�——そう言いながら、消えていこうとするではないか」  忠二郎の頬《ほお》に、微《かす》かな赤みがさしてきた。  それは生気というよりも、その思い出から受けた屈辱感のためらしい。 「ワシは、あせった。そして、思わず叫んでいた。�ま、待ってくだせえ。ワシの魂で不足だというなら、そうだ! ワシには息子が三人おります。七歳を頭に、五歳と三歳。これをいっしょに差し上げます。まだ汚れを知らない純白な魂、三つ! これで、なんとか……�」 「ま、まさか」 「妄想《もうそう》にしても、ひどい話だ!」  さすがの兄弟も、眉《まゆ》をひそめた。  だが、忠二郎は、なにかに憑《つ》かれたように早口で喋《しやべ》り続ける。 「……と、どうだ! 悪魔の姿が、また、パッと鮮明になった。ワシの言葉で気を変えたのじゃ。そして、言った。�なに! 息子を三人とも?��あれで、よろしければ、なにとぞ……�ワシは、おまえたちが寝ている奥の間を指差して、そう叫んだ。  悪魔は、ほんのちょっとの間考え込んでいたが、やがて大きく首をタテに振った。 �いいだろう。ただし、そうなると、契約者は、おまえでなく、息子三人ということになる。つまり、息子たちが望むままに現世の幸福を得られるよう、おまえに手を貸す、という形になるが、それでもいいか?�  もちろん、ワシは頼み込んだ。死んでしまってからの魂のことより、その時は、まず生きのびることこそがワシら家族の一大事だったのじゃ。悪魔は、またうなずいた。 �よし、引き受けた。しかし、あの子供たちも、なにしろおまえの息子だ。三人合わせても、そう大した取り引きとはいえん。しかし、俺も悪魔だ。できるかぎりの幸福は掻き集めてきてやろう�……そして、悪魔は消えた。  その翌日……新聞を見たワシは、なんの気なしに買っておいた宝クジが特等を射とめていることを知って腰を抜かさんばかりに喜んだ。それを元手に、大量に仕入れた笛つきのヤカンが、これまた大当り! いっきょに盛り返した勢いにのって、次に仕入れた新式歯ブラシが……」  あとは、もう、いつも通りの自慢話。  それをくどくど寝言のように繰り返しながら、平田忠二郎は大往生をとげた。  兄弟三人は、さすがにいい気持ちはしなかった。しかし、父親ゆずりで、現世のことにしか興味のない三人は、一か月もしないうちに、父親のたわ言をすっかり忘れた。  それどころではなかったのだ。父の死後、セントラル平忠の業績がまた一段と上向き、東京進出、さらにはロサンゼルス支店の話などが持ち上がってきたからだ。  セントラル平忠は、その後もデパート業界の常識をひとつ、またひとつと塗りかえながら発展した。  そして、社長の忠雄が、急な病いに倒れた十五年後には、全国七支店、海外に三ブランチを持つ、押しも押されもせぬ勢力にのし上がっていたのである。  忠雄は、特別病室のベッドの中にいた。  しかし、二人の弟が頑張《がんば》っていてくれるから、事業について、あれこれ思い悩む必要はなかった。  彼の入院後も、業績は依然順調だった。  ただ、彼の病状だけは、余り思わしくはなかった。  鎮静剤の注射で二時間ばかりウトウトしていた忠雄は、ふと目を開いた。  すると、ベッドの横に悪魔が立っていた。  それは、ひと目で悪魔とわかる、あの物語のさし絵そのままの姿でそこにいたのだ。 「ワッ! な、なんだおまえは!? なんの用だ!」  忠雄は叫んだ。 「なんの用だ、はないだろう」  悪魔は薄ら笑いを浮かべて言葉を継いだ。 「お迎えにやってきたのさ。おまえの親父の忠二郎との契約にもとづいてね」 「ば、馬鹿な! し、知らん。そんな契約は知らん!」  忠雄はわめいた。 「いくら知らんと言ったって、契約は契約。俺はいただくものを、いただいていく。まだ、あとふたつ残っているわけだが」 「あとふたつ!? 弟たちか?」 「その通り。それをいただけば、契約は全《すべ》て終了。俺も肩の荷が下ろせるってわけだ」  忠雄の顔が、瞬間|歪《ゆが》んだ。別に、魂の危機におびえたのではない。彼の頭は、もっと現実的な方向に働いた。 「す、すると、会社はどうなる!? セントラル平忠はどうなる!?」 「さあね。それは知らんよ。あんたの子供たち、弟の一族が勝手にやっていくさ。ま、いずれにせよ忠二郎さんの血筋だから、俺の力がなくなれば、どうなるかははっきりしているがね」 「そ、それは困る!」 「困るといったって、仕方なかろう。取り引きが終わるんだから」  悪魔は、とまどったように尻尾を打ち振った。 「待ってくれ。ちょっと待て。じゃあ、その取り引きってのを、もう少し続けようじゃないか。なら、いいだろう? お互い、ビジネスライクに話し合おう。子孫の没落を、黙って見過ごしにはできんからな」  忠雄は枕元の電卓に手をのばし、孫たち、それにこれから生まれてくるであろうひ孫たちの数を計算しはじめた。  セントラル平忠は、それからも隆盛を誇り、ついに業界第一位の座を確保した。  そして日本も、急速に超経済大国としての力をのばしていった。  日本の好況は、やがてアメリカに飛び火し、そして自由主義陣営全体を巻き込み、やがて社会主義陣営をもパラダイスに変えた。全世界から飢餓と貧困が消滅したのは、一世紀後のことである。  この、人類はじまって以来、未曾有《みぞう》の大好況の時代に、ひっそりとその門を閉ざした組織がひとつだけあった。言うまでもなく、閉ざされたのは、天国の、あの狭き門だった。  青葉荘綺譚 〈空室有ります 青葉荘〉  貼《は》り紙を出して三日目にやってきた男性を、アオバサンは一目で気に入った。  アオバサンというのは、アパートの家主兼管理人で、自分は玄関わきの一〇一号室で暮らしている。  大学に近いため、間借人の大半は学生だ。地方出身者が多い。  年|毎《ごと》に、やってきてはまた巣立っていくそんな学生たちを、アオバサンはもう二十年以上、親がわりのつもりで世話してきた。  アオバサンは大正の生まれ。戦後すぐに結婚して二児をもうけたが、昭和三十五年、ご主人に先立たれて以来独り身。二人の子供もそれぞれに独立して、今は別の町に住んでいる。  だからアオバサンにとっては、アパートの住人が子供のようなものだ。気に入らない人間は下宿させない、それが彼女のただひとつのわがままである。  長い間の経験で、間借人の良し悪しは第一印象で見当がつく。  その日、玄関を開けて入ってきた男性は、まちがいなく合格だった。 「あの、家主さんにお目にかかりたいのですが……」  彼は切り出した。  アオバサンは笑顔で彼にうなずき返した。 「あたしが、このアパートをやっている清水です。清水富美子と申します」  それが彼女の本名である。  アオバサンというのは、�青葉荘のオバサン�がつまってできた愛称だ。学生たちが、いつの間にか彼女をそう呼びはじめていたのだ。もっとも最近では、陰でアオバーサンなどとも言っているらしいが。  男も、にこりと笑った。そして、ていねいに頭を下げた。 「部屋が空いているという貼り紙を見たもので……」  彼は言った。言葉に訛《なま》りはない。しかし少しばかり奇妙なイントネーションが感じられた。それは、日本語がとても上手な外国人の発音に似ていた。 「ええ、二階の二〇一号が空いてますの。ご覧になります?」  彼にスリッパをすすめながら、アオバサンは彼の身なりをざっと点検してみた。  学生ではないらしい。背広の着こなしも決まっている。年齢は二十代後半といったところか。頭髪にも乱れがない。なかなかの好青年だ。  こんな学生下宿よりも高級マンションが似合いそうなものなのに、とアオバサンは思った。しかし、それは口にしなかった。彼女は彼をすっかり気に入っていたからだ。 「お勤めですか?」  二〇一号室のドアを開けながらアオバサンは訊《き》いた。 「あっ、これは失礼」  彼はすぐにポケットから名刺を出した。 「……こういう者です。旅行社に勤務しておるんですが、実は今度、すぐ近くに営業所ができることになりまして。ここに住まわせていただけると、とても便利なもので——」  彼が差し出した名刺には、 〈近時日本ツーリスト/85営業所 寺見屋一実《てらみやかずみ》〉  とあり、同じ町内の番地が書いてある。 (なるほど、仮眠所のように利用するわけね)彼女は納得《なつとく》した。 「まあ、旅行社……キントキとお読みするんですの?」  それを聞いて、彼は頭を掻《か》いた。 「いや、正しくはキンジでしてね。まあ、キントキでも構いませんよ。その方が面白い」  その時から彼のニックネームは�キントキ�氏になった。  四日経って、キントキ氏は段ボール三つかかえて二〇一号室に引っ越してきた。  荷物の少なさをいぶかしんでアオバサンが尋ねると、重要なものは、会社の方に置いてあるとの答だ。ベッドと布団《ふとん》は、その後になってデパートから届けられた。  それらを運び込んでから、キントキ氏が一〇一号のアオバサンを訪ねてきた。今月分の家賃、それに、敷金、礼金を払いにきたのだ。  お金は、当人が引っ越してきてからもらうというのがアオバサンの主義だった。それが家主と間借人の、信頼関係の第一歩だと彼女は考えていたのだ。 「お世話になります。どうぞ、よろしく」  封筒に入ったお金を、キントキ氏が差し出した。  アオバサンはそれをおしいただき、封を切って一応中身を確かめた。  必要な額がきっちりと入っている。  しかし、その紙幣が、どれもひどく古ぼけているのが気になった。まるで大昔の古銭のような色合いだ。  しかし、ニセ札などでないことは確かなようだ。アオバサンは、黙ってそれを受け取った。 「ところで、電話はお引きになりませんの? もし必要なら、すぐに手配いたしますわよ」  最近は学生でも全員が電話を入れる時代だ。  彼のような仕事なら、すぐにも電話がいるだろうとアオバサンは思ったのだ。ところが、キントキ氏は首を振った。 「いえ、こっちへは来たばかりで、知り合いもいませんから……」  そう答えたのだ。  その二日後、今度は、風呂《ふろ》屋の先の小さなビルの三階に〈近時日本ツーリスト85〉の看板がかかった。  アオバサンは、開所祝いをかねて、そのオフィスを訪問してみることにした。  ノックをすると、中からキントキ氏の声。  彼女はドアを押した。  そこは、およそ旅行社らしくない殺風景なフロアだった。  事務机が部屋の中央にひとつ。どうやら所員は彼ひとりしかいないらしい。  ところが、壁際には、似つかわしくないほど大きな両開きの金属キャビネットが三つ並んでいる。  彼女がドアから顔をのぞかせた時、キントキ氏はそのキャビネットのひとつを慌てて閉じているところだった。 「お邪魔かしら?」  彼女が訊くと、彼は笑いながら首を振った。 「さあ、どうぞ、どうぞ。今日はまだ、営業もはじまっていませんし」  彼女は好奇心につられて、遠慮なくオフィスに足を踏み入れた。  持ってきた果物を彼のデスクの上に置いてあたりを見回す。  旅行会社につきもののパンフレットや、案内書の類がどこにもないのが、やはり奇異の念を抱かせた。 「いや、小さな会社なものでね。とりたてて広告物は作っていないんですよ」  まるでアオバサンの気持ちを読んだかのように、キントキ氏が言った。相変わらず、妙なイントネーションだ。 「小さいといっても、営業所が八十以上もあるんでしょう?」  名刺や看板の85営業所という文字を思い出してアオバサンは訊いた。 「いやいや……」キントキ氏は首を横に振った。「85というのは、営業所の数じゃないんです。いまは、一九八五年でしょう? だから、85……」 「じゃ、他の営業所は?」 「ええ、もちろんありますが、いまの東京には、ここひとつです」 「はあ……」  よく意味が分からなかったが、ともかくアオバサンはうなずいた。 「でも、お仕事柄、あちこち旅行なさるんでしょう?」 「いえ、担当がこの東京ですから、他の土地へは行きません」 「東京がご担当?」 「そうです。この町を案内するのが仕事です」 「というと、お客さんは、どこか田舎《いなか》からいらっしゃるんですか?」  この質問に、キントキ氏は明るい笑い声をあげた。 「いえ、田舎じゃありませんよ。いまの東京よりずっと都会から来るんです。もっとも、住みごこちの方は、こちらがずっと勝《まさ》っていますけれどね。だからこそ、人気があるんですよ、85営業所は」 「はあ……」  アオバサンはちょっと首をかしげた。 「じゃあ、主に外国の方?」 「そういうわけじゃありません。お客の大半は日本人です」 「はあ……」  ますます分からなくなった。  それでアオバサンは質問を変えた。 「これまで、どちらにいらしたんです? つまり、前任地はどこでしたの?」 「ええ、もっと、先の方でした」 「先の方?」 「もっと前の方に勤めてたんです……」 「はあ……」  その時、卓上の電話が鳴った。 「おっと、お客さんだ」  キントキ氏が受話器を取った。 「あ、それではあたし、そろそろ……」  アオバサンは腰を上げた。 「そうですか。では、また、いつでも、いらしてください」  受話器を握ったまま、キントキ氏がうなずいた。  アオバサンは、そんな彼に頭を下げた。  そして部屋を出ようとして顔を上げ、ふと見ると、その電話にはダイヤルもプッシュ・ボタンもついていなかった。  アオバサンは、またも首をひねりつつ家路についた。  青葉アパートと、近時日本ツーリストのビルは、すぐ目と鼻の先だった。  見張るわけではないが、買い物の行き帰りに、嫌《いや》でも目につく。  そうして観察するかぎり、キントキ氏の商売はなかなか繁盛しているようだった。  会社の小型バスに客を詰め込み、忙しく彼等をどこかへ案内していくキントキ氏の姿を、アオバサンは何度も見かけた。 (しかし、それにしても、あのお客さんたちはどこから来るのだろう?)  それが不思議だった。  彼等はいつも、三階の旅行社のオフィスから団体で現われてバスに乗り込み、帰ってくると、また団体でオフィスに入っていく。しかし、その彼等は、いつまで待っても、そこから出てはこないのだ。 (あのオフィス、案外広くできていて、奥の方に宿泊施設でもあるのかしら?)  しかし、そんなはずがないことは、ビルの外観を見ればすぐに分かる。 (…………?)  アオバサンの疑問はいつまで経っても解けなかった。  しかし、彼女もいろいろと用事があった。  学生たちのために夕食の用意もしてやるから、これで結構忙しかったのだ。  それに、他人の仕事をあれこれ詮索《せんさく》するのは彼女の主義に反した。  とにかく、キントキ氏は、大変にいい間借人だった。家賃は決してとどこおらなかったし、夜中に騒いだりも絶対にしない。  月日が流れた。  十か月後のことである。  ある朝、突然、キントキ氏が彼女の部屋へやってきた。  なにかひどく慌てている。 「アオバサン……」(彼もとうにその呼び名に慣れていた)「まことに申し訳ないのですが、今日限りで部屋を引き払わなくてはなりません」 「えっ? 今日ですって?」  彼女も驚いた。 「突然、97営業所に転勤が決まったんです。これからすぐ、そっちに出頭しなくちゃならないんです」 「まあ、それじゃあ、仕方がないけれど」 「これ、今月分の家賃、六万円です。すみません、あわただしくって……」 「それは構わないけど、今、日割りで計算して、残りをお返しするわ」 「いえ、いいんです。時間がありません。ご迷惑料だと思って受け取って下さい」  キントキ氏は、いつまでも抜けない奇妙なイントネーションの早口でそう喋《しやべ》ると、頭を下げ、出ていった。 「まあ、まあ……」  つぶやいて、アオバサンは、彼が置いていった封筒を手に取った。  六万円にしては、ちょっと薄いな、と思いつつ……。  …………  ………… 「……そうしたら、その五万円札と一万円札が入ってたっていうんですね?」  僕は、彼女から紙幣を受け取り、それをすかしたり、なぜたりしてみた。  相当に古びてはいるが、なんの変哲もない五万円札だ。 「あたし、最初はてっきりニセ札だと思ったの。だって、五万円札が発行されたのは去年のことでしょう? でも、キントキ氏があたしにそれをくれたのは、昭和六十年の話なのよ」  彼女は小さく溜息《ためいき》をついた。 「確かに、その年号に間違いがなければ、変な話ですね」  僕は言った。しかし、その五万円札はまぎれもない本物。しかも、五万円札は、もう今では別にめずらしくもなんともない、ただの紙幣だ。 (なかなか面白い茶|呑《の》み話を考えついたもんだ……)  僕は心の中で苦笑した。しかし、表情は真剣なまま、彼女にうなずき返した。 「まったく不思議な話だ」 「ええ……」  アオバサンはゆっくり目を閉じた。 「もしも、もしも……そうだったのなら、あたし、彼にどうしてもお願いしたかったんです。あたしを、60営業所のツアーへ連れてってくれるよう頼みたかった……お父さんがまだ、生きていたあの頃へ……」  アオバサンの目に、きらりと涙が光った。  避けられぬ運命 (夢だ…… 夢を見ているんだ……)  そう自分を納得させつつ、わたしはあたりを見回した。 (それにしても、ここは、いったい……)  わたしが立っているのは、ただもう、だだっ広い大広間の中だ。床の上に、とにかく見渡すかぎり、大小無数の砂時計が並べてある。  大きいものは背丈が五十センチほどか。小さいのになると、それこそ数センチしかない。  その中には、恐ろしく細かい砂が入っている。そして見えるか見えないかの糸となって、音もなく流れ続けているのである。  上の部分にたっぷり砂が入っているものもあれば、あと少ししか残っていないもの、すでに砂がつきた時計もまじっている。  大きさもさまざまなら、その状態もてんでばらばらなのだ。  なんともはや、理解に苦しむおかしな夢だ。  そう……飲みすぎた酒のせいに違いない。  眠りにつく前、わたしはしたたかに酔っていた。  しかし、悪い酔いではなかったはずだ。  結婚十五周年を祝って抜いた、我が家にしてはちょっとぜいたくな紅白二本のワイン。その口当りのよさにつられ、交互にちびちびやっていて、わたしはいつの間にか、すっかり酩酊《めいてい》してしまったのだ。  わたしはさほど酒に強い方ではない。  だから、それだけ酔ったといっても、二本のボトルの中身は、まだそれぞれ三分の二近く残っていた。 「あなた、もうおよしになった方がいいわよ」  妻の良江がわたしをたしなめ、残りに栓《せん》をして片付けだした。 「パパ、お休みなさい」  十二歳になる息子と、十歳の娘が、そう声を合わせ、子供部屋へ引き上げていったのも覚えている。  しかし、そこまでだ。  急に頭の中がぐるぐる回りだしたわたしは、良江に肩を支えられ、寝室に転がり込んだ。  そのままふとんの上に大の字になり、意識を失うように眠りに落ちたのだ。  そして……夢を見た。  最初は、ちょっと息苦しさがあった。天も地もないもやの中をただよっているような、そんな心細い夢だ。  どうにも居心地が悪くて、そこから逃げだそうと、わたしは手足をばたつかせた。  そのうちに、水中を進む要領で、自分の身体を移動させられることが分かってきた。  首を巡らしてみると、少し離れた位置に黒い影のようなものが見える。  とりあえず他に目標もないから、わたしはその影を目指して、もやの中を泳いでいった。  黒い影は、どうやら穴の入口らしい。  どこへ通じているかは知るべくもないが、自分が夢を見ているのだという意識が心の隅《すみ》にあり、その気楽さで、わたしはひょいと首を突っ込んだ。  と、身体がそこをするりと抜けた。  次の瞬間、この見渡すかぎり砂時計が並ぶ途方もない大広間のまん中に立っていたというわけだ。  わたしは再び、あたりを見回した。そして驚いた。  一列横の砂時計の陰から、ひょっこりと一人の老人が姿を現わしたのだ。老人は白い寛衣を身にまとい、両腕でいくつかの砂時計をかかえている。  わたしと老人の目が合った。 「おや」老人が、わたしににこりと笑いかけてきた。「おまえさん、いったい、どうやってここへ来なすった?」  わたしはその質問の意味が分からなかった。そこで逆に訊《き》き返してみた。 「あの……ここは、どこなんでしょう?」 「ははあ、なるほど……」老人は笑いだした。「おまえさん、ここが生命宮と知らずに迷い込んできたんだね?」 「生命宮?」 「またの名を冥界《めいかい》とも言うがの。冥は命に通ず……即《すなわ》ち、人間の生死、寿命を司《つかさど》っておるのがここじゃ」  老人は事もなげに説明した。 「おまえさん、恐らく、偶然で冥酒と命酒、その両方をいっぺんに口にしたんじゃろうて」 「紅白のワインを、チャンポンで飲みました」  わたしは、とにかく、この夢に調子を合わせることにした。飲みすぎの結果であるにしろ、これだけ奇想天外な夢に、そうそうお目にかかれるものではない。 「ワイン? それそれ。きっとそれじゃ。その紅白が、実に偶然にも、冥と命の精をそれぞれ宿しておったのじゃろう。五百年に一度くらい、そういうことがあるものじゃ」  老人は話しながら、運んできた大きな砂時計を床に置き、かわりに砂がすっかり落ち切ってしまった時計を取り上げて腕にかかえた。 「あっ! では……」  わたしは思わず大声で訊いた。 「ここが、その、生命宮だとすると、並んでいる砂時計が人間の寿命……」 「その通りじゃ」  老人は、わたしを気にする風もなく仕事を続ける。 「ということは、砂のたくさんつまっているのは、生まれたての赤ん坊。砂がなくなったものは、寿命がつきた人間……」 「そうそう。新しい時計を並べ、終わったものを回収するのが、儂《わし》の仕事での。これでなかなか骨が折れるわい」  老人は、またひとつを床に置き、かわりにふたつを列から取りのぞいた。 「つまり……」わたしは、ちょっと怖い気分になりながら質問を重ねた。「すると、わたしの……このわたしの砂時計もどこかに並んでいるわけですね?」 「もちろんだとも」老人がにやりと笑って顔を上げた。「見たいかね?」 「え、ええ。ぜ、ぜひ!」  わたしは叫んでいた。 「よろしい。せっかくのめずらしいお客さまじゃ。ご覧にいれてもよい、が……そのかわり、砂の量がどうであろうと、取り乱したりなさらんようにな。こればかりは、天の定め、誰《だれ》もが避けられぬ運命というやつじゃ。儂とて、それをどうしてやることもできん。分かるかな? ただ、おとなしく眺めるだけじゃぞ」 「約束します」 「よろしい。では名前と生年月日を教えてくだされ」  わたしは答えた。 「ふむ。それならば、こっちじゃ」  老人はわたしを見つめ、そして手をのばしてわたしのひじを握った。  と、二人の身体がふわりと宙に浮き上がった。そのまま、滑るように、果てしなく並ぶ砂時計の列を飛び越えていく。  目指すところまではそう遠くなかった。二人は、ふわりと床に降り立った。 「これじゃ、これじゃ。おお、なかなか立派ではないか。心配はいらんて」  老人が指差した砂時計は、まあまあの大きさだ。砂はすでに半分ほどになっているが、まだ残りも充分ある。  わたしは今年で四十一歳。それから推測すると、あと四十年は優にもちそうだ。  夢の中とはいえ、わたしはほっと胸をなで下ろした。そしてついでに尋ねてみた。 「わたしの妻は良江といいます。良江の砂時計は、どこか別の場所ですか?」 「おまえさんの女房? それなら、すぐ隣じゃよ。それ……」  指差しかけて老人が声を途切らせた。  なんと、その砂時計は、わたしの半分ほども大きさがない。しかも、上側の砂は、もう今にも切れかかっているではないか。 「ま、まさか! 病気ひとつしたことのない、健康だけがとりえの良江が……」  悲鳴を上げそうになったところで、目が覚めた。  朝だった。  台所からは、子供たちを学校へ急がせる良江の声が聞こえてくる。  なんとも、嫌《いや》な夢の結末だった。宿酔《ふつかよ》いか、頭の芯《しん》がどんよりと痛む。  そこへ良江が飛んできた。 「あなた、八時十五分よ。遅れるわよ」  いつもの、はつらつとした声だ。 (そうとも。あんな夢を気にするなんて……)  わたしは悪夢を頭から振り払い、思いきってふとんをはねのけた。  しかし——  その日の三時十五分。出先で会議中だったわたしの所へ、一本の緊急連絡が飛び込んできた。  買い物帰りの良江が、家の近くの交差点でクルマにはねられたというのだ。外傷はほとんどないが、脳内出血がひどく、重体らしい。  目の前が暗くなった。しかしともかく病院へ駆けつけた。だが、現われた担当医師は、口をへの字に結んでただ首を横に振るだけだ。  わたしは動転した。しかし、うろたえながらも、為《な》すべきことはひとつしかないとはっきり悟っていた。  わたしは家へ飛び帰った。息子と娘は近くの家へ預け、そうしておいて、昨夜の残りのワイン二本を持ち出した。紅白をかわるがわる、ぐびぐびと飲み干す。  たちまち、酔いが全身に回り、わたしは床に倒れ込んだ。目を閉じる。  と、わたしはもやの中にいた。  そこを必死で泳ぎ渡り、あの穴を見つけて飛び込んだ。  昨夜と同じ光景。やはりあれは、ただの夢ではなかったらしい。冥と命の精を宿した酒という五百年に一度の奇跡は本当だったのだ。  見回すが、幸い、あの生命宮の番人はいない。  わたしは走った。あの見覚えのある砂時計を求めて、走り回った。 (あった!)  まさに、砂がつきようとしている良江の時計。あと先も考えず、わたしはそれを持ち上げ……そして逆さまにした。砂がまた、さらさらと落ちはじめた。  気が抜けて、わたしはその場にへたり込み、そして失神した。  電話のベルで目が覚めた。  慌ててそれに飛びつく。相手は病院の医師だった。 「奇跡です、まったくの奇跡だ! 内出血が、嘘《うそ》のように消えたんです! 分かりますか!? 奥さんは助かります!」  三日経って、良江はあっさりと退院してきた。  以後の検査で、異状が全く認められなかったからだ。 「なんだか、前より調子が良くなったみたい」  良江は元気いっぱい、その日から台所に立って働きだした。  しかし、わたしは不安だった。耐えがたい怖《おそ》れが胸にあった。  そして、それは、二年、三年と経つうちに、ますますはっきりした形となって現われはじめた。  良江が、明らかに若返りはじめたのだ。  今はいい。中年の域に達したわたしにとって、若々しさを取りもどしていく妻は魅力だった。  だが——  二十年先、三十年先……それを想像して、わたしはいつしか、紅白のワインを浴びるように飲む人間になっていた。  もしそれまでに、冥と命の精を宿す酒を見つけられなければ……小さな女の子を連れたアル中の老いぼれ。そんな自分の未来が、今から見えるような気がするのだ。  秀才カプセル  先月以来、山本家は暗い雰囲気《ふんいき》に包まれていた。一人息子の幸雄が大学受験に失敗したためである。  とはいえ、それも当然の結果に違いなかった。  裕福な家庭でわがまま放題に育ったものぐさな幸雄は、何かを暗記するのがとにかく苦手で、しかもヤル気に欠けていた。その彼の能力を買いかぶり、一流校ばかりを狙《ねら》わせた母親にも責任がある。  しかし、もう、今となってはあれこれ言ってもはじまらない。  当面の目標は、三日後に迫った予備校のクラス分け選抜テストだ。このテストで下位クラスに回されると、余程努力しないかぎり志望校のランクを最初からおさえられてしまう。  山本夫人は焦《あせ》っていた。  午後の三時。父親は会社だ。  幸雄は二階の自室に閉じこもったきり、朝からステレオを鳴らし続けている。勉強をしている気配はまるでない。 (こんなことで、いいのかしら……)  彼女はイライラを噛《か》み殺しつつ、音を消したテレビの前に座っていた。  その時——来客を知らせるチャイムが鳴った。  夫人は溜息《ためいき》をついて立ち上がり、玄関に出てドアを開いた。  一人の男が、帽子を取り、ていねいにおじぎした。上品な白髪の老紳士だ。質素だが、身なりはきちんとしている。 「どちら様でしょう?」  つられておじぎを返しながら夫人は訊《き》いた。 「あの、わたくし、こういう者で……ぶしつけとは存じますが、少しお時間をいただき、お話しさせていただければと……」  老紳士が背広の内ポケットから取り出したのは一枚の名刺だった。  それには——≪日本記憶力学会/記憶素研究所所長/医学博士神林洋三≫とある。 「はあ?」  夫人は首を傾《かし》げた。  しかし彼女は、その名刺から彼の用件がなんとなく想像できた。  恐らく、幸雄の受験失敗をどこかで聞きつけてやってきたのだろう。記憶力増進のための新発明とかなんとか称して、学習器具でもセールスするつもりだろうか。  とは思ったものの、彼女の心は動いた。  なんといっても幸雄の弱点は�記憶力�だ。たとえインチキだとしても、一応彼の話を聞いてみるべきではないか。 「どうぞ、お入りになって。お話をうかがいますわ」  彼女は彼を応接間に通した。 「ところで、奥さま……」  博士は切り出した 「お宅のご子息、今春受験に失敗なすったそうですね?」 (そらきた!)と思いつつ、彼女は慎重に訊き返した。 「それと、あなたのお話と、なにか関係がございますの?」 「もちろんですとも!」  彼は大きくうなずいた。 「最近の入学試験。あんなもので人間の知力など全く計れやしないのです。ただもう、なんでもかんでも丸暗記できる人間ばかりが有利なように作られとる。しかも、その暗記させる内容がまた無意味だ。わたくしは、それがガマンならんのですよ」 「全く同感ですわ」  思わず身を乗り出して山本夫人はあいづちを打った。 「ウチの幸雄も、決して頭は悪くないんです。ただ、どうしてもそういう詰め込み教育になじめない性質《たち》で」 「そうでしょう、そうでしょう——」  彼はなおもうなずき続ける。 「その暗記、つまり人間の記憶力というものを、わたくし、長年研究してきまして……」 「はあ」 「よろしいか。人間がなにかを学びますと、それは�記憶�という形で脳に蓄えられる。その記憶が刻み込まれる物質、それをわたくしは�記憶素�と呼んでおりますんじゃ」 「記憶素?」 「その通り。つまりですな、この記憶素にうまく情報を刻み込まないと、その学んだものが頭の中に残らんということになる。ま、いったん刻み込んでも、その情報に余り意味がないとすぐすり切れてしまう。いわゆる�忘れる�という現象ですな」  彼は説明した。 「じゃ、あなたは、その刻み込み方を解明なすったんですの? それを教えていただければウチの幸雄の学力が、ぐんぐんアップするというわけなんですのね?」  夫人は勢い込んで尋ねた。  しかし老人は首を横に振る。 「いやいや。うまく刻み込めるかどうかは、本人の、�覚えよう�という意欲によりますんじゃよ。こればかりは、個人の心の持ちようひとつでして……」 「あら。それじゃあまるで、ウチの幸雄が意欲のないぐうたら息子みたいじゃありませんの」  夫人の声が尖《とが》った。 「そういうわけじゃありません。その、幸雄クンはただ、無意味な丸暗記式学習に心の底で反発を感じているだけだと思います。その反発が影響して……」 「そんなことより、あなた。そろそろ本題に入っていただけませんこと?」夫人はずばり切り込んだ。「一体どうすれば、幸雄の記憶素とやらに、受験に必要な情報を刻み込めるんです?」  関心はとりあえず、そこにしかない。  ところがその老科学者はまたも首を横に振った。 「記憶素に情報を刻み込む方法——それは今のところ、残念ながら本人の努力によるしかないわけで……」 「それじゃあ、どうしようもないじゃありませんの。ウチの幸雄は——」 「分かってます、分かってます」老科学者は、両手をかざして彼女を制した。「幸雄クンはそれが不得手だ。そうでしょう? だからこそですなァ、わたくしはこうして、研究の成果を息子さんに試してもらおうとやってきたんです」 「だって、あなたは今……」 「まあ、お聞きなさい」  彼はにこりと笑い、先を続けた。 「幸雄君は丸暗記が苦手だ。つまり、記憶素への刻み込みが下手なわけだ。これは、その本人の性格で直しようがない。となると、手段はひとつしかない。つまりですな、刻み込みの新しい記憶素を、彼に投与するんです」 「記憶素を? 投与——?」 「その通り! わたくしの研究の成果とはそれです。刻み込みの済んだ記憶素を抽出し、それを錠剤化することに成功したんです。さあ、見てください!」  老科学者は目を輝かせ、ポケットから大事そうに薬包を取り出した。それを開く。  中には、直径三ミリ、長さ一センチほどの錠剤カプセルが五個収められていた。  よく見ると、それぞれに英、国、社、理、数などという小さな文字が書き込んである。 「こ、この中に、各科目の記憶素が——!?」  夫人は目を剥《む》いて、思わず叫んだ。 「大変な苦労でした。この五粒を作るのに、合格したての東大生三十人をやといましてね。一人一人から記憶素を抽出、分類、収集したんです。精製に丸一年かかりました。おかげで私財がすっかり底をついてしまいまして……」 「なるほど、そういうわけ……つまり、これを売りたいとおっしゃるのね?」  急に疑い深そうな声になって夫人は訊いた。 「おっしゃる通り。なにしろ、今のわたしは無一文。この発見を製品化しようにも、元手がありません。そこでお宅様のような裕福なご身分の方に援助いただきたいと……」 「で、一粒いくらなの?」  老科学者の言葉を全《すべ》て信じたわけではないが、彼女は一応そう尋ねた。 「はい……一粒二百万円ということでは?」 「二百万円ですって?」 「しめて、一千万円。それだけあれば、バクテリアのDNAを使って、同じ記憶素を量産できるんです。そうなれば、もちろん、価格はずっと下がるでしょう。でも、その時は、誰もがこのカプセルを手に入れられるというわけでして……つまり、その、幸雄クンだけでなく、他の受験生も全員が同じ受験知識を手に入れられるということで……」  老科学者は痛いところを突いてきた。  そうなれば幸雄はまた、同じ憂き目を見なくてはならない。 「いいわ」  夫人は即座に決断した。可愛い一人息子のためである。 「一千万円、なんとかしましょう。でも、それは幸雄が来年、志望校に受かってからお支払いします」 「そ、それは……わたくし、今すぐにもお金が必要なのです。というのも、わたしと同じようなレベルに達している研究者は他にも大勢いるわけで……モタモタしていると、彼等に出し抜かれてしまう」  老科学者はおろおろしながら頭を下げた。 「でもそれじゃあ、これがインチキ薬品かどうか分からないじゃないの」 「わたくしを信じて下さい。この記憶素は絶対に効果があるんです。入試前日に、普通の錠剤と同じように呑《の》み下すだけでいい。記憶素は胃から吸収されて脳に集まります。それで服用者はたちまち秀才の仲間入りです」 「ただ信じろと言われても、ねえ」 「そうですか……」  老科学者は肩を落とした。 「……では、仕方ありません。他をあたってみます。失礼しました」  今度は夫人が慌てた。 「ちょ、ちょっと待って。じゃあ、こうしましょう。このカプセルは、とにかくあたしが預かります。主人とも相談しなくちゃならないし……一千万円は、一週間後、それならいいでしょう?」  老科学者の顔がパッと輝いた。交渉成立だ。  一千万円……確かに大金だが、もし彼の言う通り、幸雄が東大クラスの秀才に変身できるとしたら安いものだ。  夫人は幸雄を呼び、わけを話した。もともと努力というものがなにより嫌《きら》いな彼。クスリ五粒で秀才になれると聞き、幸雄はためらうこともなくそれを口に含んだ。  そして三日後の選抜テストにのぞんだのだ。  結果の発表は翌々日。五教科平均九十点以上を取り、幸雄は悠々《ゆうゆう》と東大志望特待生コースに選ばれた。  幸雄はもちろん、両親も驚喜した。直ちに一千万円が老科学者に支払われたのは言うまでもない。  彼の話では、記憶素の量産化が軌道に乗るのは、まだ一年以上先らしい。となれば、それまで幸雄は敵なしの受験エリートだ。  もう、アホらしくって予備校になど通ってはいられない。彼は特待生コースから逃げ出し、ただもう毎日遊び暮らした。  すっかり安心しきった両親も、彼に注意を与えるどころではない。いっしょになってはしゃぎ回った。  そして翌年——  待ちに待った入試日がやってきた。  幸雄は勇躍、試験場へ向かった。しかし、どうもおかしい。確かにどの問題も簡単そうに思えるのだが、いまいち、正解がはっきり出てこない。変だ、変だと首をひねっているうちに、全教科のテストが終了した。  結果は——共通一次で早くも惨敗。  滑り止めにと受験した私大も全て落ちた。  怒り狂ったのは夫人だ。  神林記憶素研究所の名刺を引っ張り出し、いきなり電話口で怒鳴りつけた。 「あなた! だましたわね。幸雄の将来はめちゃくちゃよ。一千万円、返してちょうだい!」  最初は慌てた老科学者だが、夫人から事情を聞いて平然と言い返してきた。 「そらごらんなさい。効果は満点だったじゃありませんか。どうして全部を忘れてしまったかって? そりゃそうでしょう。あの記憶素は合格したての大学生から抽出したものですからね。どんな秀才だって、いったん合格しちまえばあとは忘れる一方。記憶素の耐久性は弱まってるもんです。だから言ったでしょう、入試の前日に服用するようにって。丸暗記の知識なんて、しょせん、呆気《あつけ》ないものですからなあ」 「ひどいわ……」 「でもご心配なく。おかげ様で、量産記憶素がもうすぐ市販にこぎつけます。そうなればご子息は、またすぐ秀才にもどれますよ」  老科学者は自信たっぷりに笑った。 「もっとも、これからの入試は、秀才ばかりの激戦になるでしょうけどね——」  隣町の人々  一時七分、東萩沢《ひがしはぎさわ》駅に最終電車が着いた。六|輛《りよう》編成の各車輛から吐き出されてきた乗客のほとんどは、千鳥《ちどり》足のサラリーマンだ。  星野順造も、そんな一人だった。  彼は酔っていた。めずらしく、今夜はしたたか飲んだ。新宿で、誘われるままに何軒もはしごした。  春の人事異動が発表になり、同じ部の寺崎が地方の支社へ転勤と決まった。その歓送会だった。  寺崎と星野は、同期入社だ。気の合う友人でもあった。ところが、今回の異動では、二人の内どちらかが支社に回されるだろうという噂《うわさ》が早くからあった。  星野は悩んだ。彼は東萩沢に家を買ったばかりだった。サラリーマン生活十五年目にして、やっと手に入れた新居だ。なんとしても、そこを離れたくなかった。  で、彼は秘《ひそ》かに、部長へのつけとどけをはじめた。それが寺崎に対する裏切りであることは分かっていた。分かってはいたが、彼にとって、友情よりも新居に対する執着の方が、どうしても強かったのである。  そのかいあってか、異動の対象から星野ははずれた。転勤の辞令は、寺崎に下った。  正直、彼はホッと胸をなで下ろした。が、同時に、やはり心が痛んだ。  歓送会であいさつに立った寺崎の目は、どことなくうらめしそうだった。ひょっとすると、彼は星野の裏工作に気付いていたのかもしれなかった。 「今夜はとことん飲もうや。しばらくはお別れだもんな」  彼にそう言われて断れるはずもない。  星野はつきあった。とはいえ、終電車だけは逃さなかった。ローン返済で家計は苦しい。とても東萩沢までタクシーで帰宅できる余裕はなかった。  寺崎とは固く握手して別れた。心の底で「済まん」と謝った。そして、駅へと走ったのだ。  危ういところで、最終の各駅停車に間に合った。  東萩沢まで五十八分。アルコールの臭《にお》いが充満する車内で、彼は自分自身が情けなかった。さびしかった。  らちもないことを考え続ける内、かえって酒が回ってきた。東萩沢に着いた時には、酔いが随分と深まっていた。  改札を抜け、彼は夜空を見上げた。満天の星がきらめいていた。  駅前商店街は、どこも完全にシャッターを下ろして静まり返っている。  東萩沢は、典型的な新興住宅地だ。ほんの数年前までは、ただの野っ原だった。そこに通勤新線が敷かれ、開発が急速に進んだ。  星野が買った建て売り住宅は、この駅から、さらに停留所五つバスに乗らねばならない。歩いて二十五分ほどの距離だ。  もちろん、バスはとうになくなっていた。  タクシー乗り場には行列ができている。台数が少ないから、深夜は運転手も強気だ。合い乗りで、しかも必ずチップを請求される。  星野は軽くなった財布の中身を考え、家まで歩くことにした。  東萩沢へ越してきて、ちょうど八か月目になる。もう迷う心配はないが、夜、歩いて帰宅するのは、これがはじめてだった。  商店街を抜けると、あたりは一段と暗くなった。道が上り坂になる。  彼の家は、丘ひとつ越えた向こう側にある。  バスならば、丘を迂回《うかい》するルートを走るのだが、真っすぐ坂をのぼり、そこを越えた方が近道だ。  星野はふらつく足を踏みしめ、次第に急になる坂をのぼっていった。  坂は途中から石段に変わった。  丘の頂上にある萩沢神社へ続く石段だ。近道をするには、その境内を突っ切らなくてはならない。  なにもかもが新しいこの街で、唯一、萩沢神社だけは古めかしい。由来もなにも星野は知らないが、境内の巨木が、その歴史を物語っていた。  彼は石段をのぼりきった。  社殿のわきにぽつんとともる常夜灯以外、明りはない。その光が届かぬ周囲は、闇《やみ》の中に塗り込められている。  と、星野は急に尿意を覚えた。ガブ飲みしたビールや水割りが、膀胱《ぼうこう》まで下ってきて彼をせきたてはじめたのだ。  家まで、あと十分とはかからないはずだ。が、どうにも我慢できそうにない。  見回すまでもなく、人の気配はなかった。  しかし、さすがに、社殿のまん前で立ち小便に及ぶのは気がひけた。  星野はズボンのチャックに手をかけ、小走りに建物の裏手へ駆け込んだ。  暗い。全くの闇だ。クモの巣のようなものが、顔にはりついてきた。  酒の力で相当大胆になっているはずの彼にも、その闇は不気味だった。背筋が震えた。 (引き返せ!)  恐怖心が、彼にそう命じた。 (引き返すんだ! たたりがあるぞ!)  そんな声が、頭の中に響き渡った。  だが、にもかかわらず、生理的欲求の方も今やのっぴきならぬ臨界点にさしかかっていた。  彼はクモの巣といっしょに、必死で恐怖を払いのけ、先へ進んだ。  くさむらに踏み込んだらしく、足元がおぼつかない。これでは、自分の放ったものでズボンを汚しかねない。  彼はなおも手探りで、闇の奥へ分け入った。  と、なにか妙なものに突きあたった。ぅす衣のような感触。植物だろうか? (引き返せ!)  心の呼びかけが高まった。  しかし星野は、構わず進んだ。もはや恐怖どころではない。破裂寸前なのだ。  その目の前のなにかを押しのけ、踏み込んで、彼はチャックを開いた。そして、なにもかも忘れて、放出した。 「ふう……」  助かった。彼は目を閉じ、溜息《ためいき》を洩《も》らした。恐怖心は、なぜか消えていた。 (さあ、急いで家へ帰ろう)  彼はチャックを引き上げ、おもむろに目蓋《まぶた》を開いた。 (…………?)  おかしい。ここは、真っ暗闇《くらやみ》の、社殿の裏手のはずだ。なのに、彼の目の前に、家並が続いているのが見える。もちろん、暗い。だが、ぼんやりと、確かに見える。しかも、見知らぬ、奇妙な造りの家ばかりだ。  彼は慌てて振り返った。と、そこに人間ひとりがちょうどくぐり抜けられるくらいの祠《ほこら》のような洞穴《ほらあな》が口を開いていた。  闇の中で知らずに、通り抜けてしまったのだろうか。しかし、それにしても、おかしい。ここは、どこだ!?  とにかく、引き返さなくては——  そう思った途端、背後から大声で怒鳴りつけられた。慌てて振り向くと、なにか制服のようなものを着た丸坊主の大男が、走り寄ってくるではないか。その手には、警棒らしきものが握られている。 「わっ!」  星野は叫び、洞穴に跳《と》び込んで逃げようとした。  ところが、寸前、背後から男に組みつかれた。すごい力だ。  男がまた何かわめいた。  だが、外国語らしい。星野には全く理解できぬ言葉だった。  はがいじめにされ、星野は必死であがいた。そして、なんとか男の手を振りほどいた。  と思った途端、突き飛ばされ、今度は地面に這《は》いつくばった。  見上げると、大男は洞穴の前に仁王《におう》立ちになり、手にした警棒を彼めがけて振り下ろそうとしている。  わけも分からず、星野は地面を転がった。  そして、跳《は》ね起き、走り出した。足がもつれた。だが、捕《つか》まればおしまいだ。ただもう必死で走り続け、でたらめに路地を走り回った。  いつの間にか、大男の声が遠くなった。  しかし星野も、完全に道に迷った。  一体、どのあたりだろう。全く見覚えのない家並だ。それどころか、家々そのものの形が、どれもひどく日本ばなれしていた。いや、人間ばなれしていると言った方がいい。  とにかく所番地だけでも確かめようと見回すのだが、それらしい表示がどこにもない。この街路には、電柱一本立っていないのである。  星野は息をつめ、道沿いにしばらく歩いてみた。  ところどころに、塀《へい》、というより衝立《ついたて》のようなものがあり、そこになにかが書きつけてある。が、それも星野には読めない文字だ。文字? それが本当に文字かどうか、彼には分からなかった。少なくとも彼は、そんな文字がこの地球のどこかで使われていたとは知らなかった。 (待てよ!)心臓がどきんと鳴った。(地球のどこか……地球のどこかじゃないとすると……)  彼は目をきつく閉じ、そして激しくかぶりを振った。  飲み過ぎたのだ。それで、おかしな幻覚にとらわれているのだ。なに、もう一度目を開けば、ちゃんとした東萩沢の町並が見えるはずだ。彼はそう自分に言いきかせた。そして——目を開いた。  だが、そうはならなかった。  彼は依然として、その奇怪な街路に立っていた。  通りの先の方から、声が聞こえてきた。かなりの人数が、こちらへ近付いてくる様子だ。口々に何かを言いあっている。しかし、その内容は、まるで理解できない。  彼はよろめくように、その方角へ進んだ。  と、先の曲り角で、声の主たちと鉢《はち》合わせしてしまった。  最初に悲鳴を上げたのは、星野ではなく、相手の方だった。  七、八人いる。全員が、あの大男と同じく丸坊主だ。そればかりか、眉毛《まゆげ》に相当するものもない。さらに……  気付いて、今度は星野が絶叫した。  なんと、彼等には、耳もついていないのだ。 (人間じゃない!) 一瞬、目の前が暗くなった。(俺《おれ》は、化け物の世界にまぎれ込んでしまったんだ!)  星野はくるりと回れ右すると、一目散に駆け出した。  奴等が追ってくる。化け物たちが、大声で、わけの分からぬことを叫びながら追ってくる。  その時だ。  ふっ、と彼の足が宙に浮いた。  何かに襟首《えりくび》を掴《つか》まれ、引っ張り上げられたような格好だ。  そして頭の中に、声ともいえぬ、しかし声としか表現できぬ呼びかけが伝わってきた。 「こら、こら……駄目じゃないか、隣の檻《おり》に入っちゃあ……」  そんなような意味が、声から感じとれた。 「一度逃げ出したら、もう放し飼いの檻にはもどれないよ。いいね……よし、よし、騒ぐんじゃない。大丈夫。殺したりはしない。一般見学者用の檻に移すだけだ。相当狭いところだけれど、仕方がない。おまえを元の檻にもどすと、せっかくうまくいってる社会モデルが壊れちまわないとも限らないからね……」 (サル山だったんだ!)星野は気付いた。(俺がいたあの世界は、動物園のサル山みたいな場所だったんだ……)  そして、ここは、その隣の、また別の生き物を放し飼いにする場所だったというわけだ。  星野の全身から、がくりと力が抜けた。彼はおとなしく、新しい小さな檻へ運ばれていった。  翌日、彼の妻と子供が、そこへ移されてきた。その妻が、呆《ほう》けたような顔で彼に言った。 「あ、あなた。どうしてあたしに、転勤の話をしてくれなかったのよ……」  ホイホイ・スター 「見たまえ!」  感激の余り声を震わせ、目に涙すら浮かべて、艦長のグルッケンバウワー三世は叫んだ。 「わが祖父にして、偉大なる宇宙探険家、グルッケンバウワー少佐の≪航星日誌≫は、やはり彼の想像や幻覚などではなかった。今こそついに、それが証明されたのだ。彼の≪日誌≫は、最後まで、完全に真実を伝えていたのだ!」  グルッケンバウワー三世が指差す巨大な三次元スクリーンの中央……そこには、青くみずみずしい光をたたえた、夢のように美しい惑星の姿が映しだされていた。 「見たまえ、諸君!」  艦長は再び声を張り上げた。 「わが祖父は、あれを�エデンの星�と呼んだ。だが私はあれを�希望の星�と名づけようと思う。そう! 我々はついに巡り会ったのだ。人類の新たなる希望の地を発見したのだ!」  次の瞬間、この宇宙移民船団の旗艦≪フロンティア≫号の艦内は、乗組員たちの大歓声で満たされた。  伝説の人、グルッケンバウワー少佐。  宇宙の涯《はて》を見きわめると言い残し、人類最初の空間|跳躍《ワープ》式宇宙船≪ファントム≫号を駆って、はるか銀河の最奥部へと旅立っていった男。  未知の宙域から亜空間通信で送られてくる彼の報告は≪グルッケンバウワーの航星日誌≫と呼ばれ、世界中の人々を熱狂させ続けたものである。  その彼は、八百六十三回目の跳躍《ワープ》を終えた直後、次のような短い通信を最後に消息を断った。 〈おお、神よ。なんという素晴らしい惑星だ。あなたは、こんな場所に新たなるエデンを創造しておられたのですね。奇跡だ。まさにそうとしか言いようがない。ああ……ファントム号の全《すべ》ての探査計器は、あの星が、まぎれもない真実の楽園であることを狂ったように告げている。ああ……わたしは行かねばならぬ。ファントム号が、それを求めている……宇宙のエデンが、わたしとファントム号を呼んでいる……〉  当時、地球はすでに、どのような超科学でも喰い止めようのない環境の悪化に悩まされていた。  遠からぬ将来、地球は人類の生存を許さぬ死の星となるだろう。  人々の目は必然的に宇宙へ、そしてエデンへと向いた。  ことにグルッケンバウワー家の子孫たちは、彼の祖先が発見したその新天地へと人類を導くことこそが、自分たちの神聖な使命であると考えていた。  そしてついに、人類の熱望は形となった。  第一次移民団を乗せた百隻のスター・シップと、それをひきいるグルッケンバウワー三世のフロンティア号が、荒廃した地球に別れを告げ、はるかなる幻のエデンを求めて大宇宙へと船出したのだ。  エデンを求めての、長くつらい宇宙の放浪が続いた。  彼等は何度も裏切られ、絶望し、ついにはグルッケンバウワーの発見そのものを疑いはじめていた。  しかし、今やエデンは彼等の目の前にあり、刻々とその姿を大きくしていた。  それにつれて、グルッケンバウワー少佐の時と同じように、フロンティア号のあらゆる高感度惑星探査システムもまた、狂ったように、信じがたいほど素晴らしいデータを次々に吐き出し続けていた。  それらを受けて、フロンティア号の航法コンピューターも、まるで吸い寄せられるように、船をその惑星へと接近させていく。 「……どうやら、惑星の周囲を八個の衛星が取り巻いているようだ……もしかすると、人工の建造物かもしれぬ」  スクリーンにじっと見入っていたグルッケンバウワー三世が、ふと眉《まゆ》を曇らせた。 「なあに、大丈夫ですよ。もし、知的生命が住んでいたとしても、これだけ、ゆったりとした楽園で生まれた連中だ。きっと気持ちよく我々を迎えてくれるに決まってます。ご覧なさい。あの海、あの山や谷、緑の平原……どこもかしこも空地《あきち》だらけじゃないですか。しかし万一、我々を攻撃してきたりしたら、このフロンティア号がある。我々は自衛のために、彼等と戦わなくてはならなくなるでしょう。その方が、かえって手っ取り早いかもしれませんがね。だってそうでしょう、これだけ素晴らしい惑星を、ひとつの種族だけが独占するなんて、そんな身勝手を断じて神がお許しになるはずはない」  すっかり有頂天《うちようてん》になっている副長は、どちらが身勝手かよく分からぬ論理を展開する。  しかし、グルッケンバウワー三世も、それには全く同感だった。  もともと狂信的なところのあるグルッケンバウワー家の一員たる彼は、彼の祖父の言葉通り、この星を、神が人類に与えた第二のエデンであると信じて疑わなかったのだ。  フロンティア号は、ますます船足を上げ、その惑星へと接近した。  全ては、コンピューターによる自動制御だ。こうした複雑極まりない宇宙船を、人間が自分の手で動かすことは不可能だからである。もしそれを試みれば、船はたちまちにしてとんでもない運動をはじめるか、あるいは自爆してしまわざるを得ない。  後に続く百隻のスター・シップも、宇宙航行のシステムはフロンティア号と同じだ。 「待てよ?」  グルッケンバウワー三世が異常に気付いたのはその直後だった。  フロンティア号が船体を軽く揺すり、針路をわずかに変えたのだ。  どうやら、直接エデンへは向かわず、まず最初に、その八つの衛星のひとつに着陸するつもりらしい。  グルッケンバウワー三世は、慌てて航法コンピューターに問いかけた。 「おい、なぜ針路を変えた。なぜ、まっすぐに�希望の星�へ向かわんのだ!?」 「艦長、本艦ハ�希望ノ星�ヘ向カッテオリマス」  コンピューターが答えた。 「なんだと!? ではなぜ、衛星などへ行こうとするんだ……」 「ソレガ�希望ノ星�ダカラデス」 「ば、ばかな!」 「シカシ、アラユル�データ�ガ、ソノコトヲ示シテイマス。楽園ハ惑星デハナク、衛星ノ方デス。アノ星ガ、我々ヲ呼ンデイル……我々ヲ招イテイル……」 「そ、そんな……」  押し問答を続けるうちに、フロンティア号はすでに着陸態勢に入っていた。  そして静々と、エデンの衛星のひとつに着陸してしまった。  コンピューターは、ここが楽園だと断言したが、それはなんの変哲もない、殺風景な球体だった。  かろうじて呼吸できそうな大気がうっすらと表面を覆っている以外、あとはのっぺりとした大地が果てしなく続いているだけだ。 「けっ! いったいコンピューターのやつ、どういうつもりなんだ」  副長は首をかしげた。 「まあ、とにかく、いったん船の外へ出て見る以外ないだろう」  グルッケンバウワー三世が決断を下した。  乗員たちはハッチを開き、稀薄《きはく》な大気を怖《おそ》る怖る嗅《か》ぎながら船外に出た。  彼等の頭上には、あの楽園の惑星エデンが誇らしげに光り輝いている。 「どうにも分からん。航法コンピューターが情報の評価を誤るとはとても考えられない。しかし、私の目には、どうしても、あのエデンの方が楽園だと思えるのだが……」  そんなグルッケンバウワー三世のつぶやきを、副長のすっとんきょうな叫び声が掻《か》き消した。 「せ、船長! 見てください。足が、足が地面から離れない。くっついちまったようです」  悲鳴は、他の隊員の間にも、またたく間に波及した。  彼等は大慌てでブーツを脱ぎすて、裸足《はだし》になってフロンティア号に逃げ帰った。  艦内に駆けもどるやいなや、グルッケンバウワー三世は髪を振り乱してわめき散らした。 「脱出だ! この衛星からすぐに脱出するんだ。わけが分からん。しかし、これは何か、とてつもない罠《わな》に違いない!」  確かにその通りだった。  その時すでに、艦底をべったりと衛星の地表に密着させていたフロンティア号は、飛び立とうにも飛び立てない状態におちいっていた。  それでもなおコンピューターは、この衛星こそが楽園だと主張し続けていたのである。 「また、何か、かかったようだね」  素晴らしい星の、素晴らしい住人が、優雅なデザインの表示板の前で、もう一人の素晴らしい住人に話しかけた。 「どうやら、そのようです。第二衛星ですね」 「この前も、あそこに小さいやつがかかったんじゃなかったかね?」 「ええ……同じ種類のやつかもしれません」 「しかし、奴等の宇宙船の電子頭脳ってのも他愛がないね。どれもこれも、誘引電波にいちころでだまされてしまうんだから……」  一人が笑った。 「それに引っかからない位の高度な電子頭脳を持つ種族でなくては、とても我々とつきあう資格はないというわけです。それにしても、電子頭脳の好みを八つのタイプに分け、それそれご希望の誘引電波でおびき寄せるなんて、素晴らしいアイデアですね。そのおかげで、我々はいつも、害虫のような宇宙種族に悩まされずに暮らしていけるわけです」 「まさにその通り。このアイデアはもともと、はるかな昔、我々の先祖が考えだした害虫退治の方法にならったものなんだ」 「そうでしたか」 「しかし、気をつけた方がいい。一隻見えたら百隻いると思え——これが、昔も今も変わらぬ真理なのだからね」  楽園の住人たちは涼し気に笑い合ったのだった。  おとつい、おいで 「スクーターじゃないか」  俊男が口を尖《とが》らせた。 「ああ、スクーターだ」  俺《おれ》は答えた。 「じゃあ、いったい、その……タイムマシンとやらは、どこにあるんだ?」  俺はニヤリと口元をゆるめた。そしてスクーターのハンドルに片手をのせた。 「こいつだ。こいつが、その、タイムマシンだ」  俊男が、困ったような顔つきで、俺とスクーターを幾度も見比べた。そして、言った。 「……と言われても、ただのスクーターにしか見えないが……」 「その通り」俺はうなずいた。「確かに、こいつは、ただのスクーターさ。車体にも、五〇CCのエンジンにも、まったく手は加えていない。普通に、路上を走行することもできる」 「待ってくれよ」俊男が首を左右に振った。「おまえが、天才的な発明家だってことは、オレも認める。しかし、天才ってのは、時として……いや、よそう……とにかく、その、ただのスクーターで、どうやって時間旅行をやらかすつもりなんだ?」  どうやら俊男は、俺のアタマを疑っているらしい。確かに俺には人並みはずれてそそっかしいという欠点がある。しかし、こと発明に関しては、そのそそっかしさが、人並みはずれたひらめきを生んでくれるのだ。  俺は自信たっぷり、胸を張ってみせた。 「もちろん、仕掛けがあるのさ。スクーターそのものが、タイムマシンってわけじゃない。車体とエンジンをそのまま利用して、そこに、ある装置を取り付けてある」 「ある装置?」 「タイム・コンバーターと俺は名付けたんだが……その装置によって、スクーターを二次元的に前進させる駆動力を、時間旅行、すなわち四次元的移動のための推進力に変換する……」  俺は走り書きの設計図を広げ、タイム・コンバーターの解説にかかろうとした。  俊男が慌てて俺を止めた。 「いいよ、信じるよ。どうせオレには理解できっこないんだから。それより……五〇CCのスクーターとはねえ……タイムマシンにしちゃあ、ちょっと心細すぎやしないか? 同じ�利用�するにしても、せめて軽四輪くらいのパワーがないと……」 「大丈夫! 全て計算済みだ——」  俺は、俊男の妙な忠告を笑いとばした。 「五〇CCのエンジンは、重量の割りに効率がいいから、パワーは心配ない。それに、この一号機で、いきなり�遠出�するわけじゃない。ちょっと、�あさって�まで行くだけだ」 「あさって?」 「そう! もちろん二号機は、もっと大型の大排気量車で製作する。今回は、そのための資金づくりが目的だ。だから、君に援助を申し入れたってわけだ」  俺は勢い込んで、彼に計画を打ち明けた。  実を言うと、俺は、このタイムマシンづくりのために、全財産を使い果たしてしまっていた。  そればかりか、途方もない額の借金をかかえこんでもいたのである。  今日は土曜。月曜になると、その取り立て人たちが、どっと押し寄せてくる。つまり、俺は金銭的に完全に追いつめられていた。  俊男が指摘した通り、確かに五〇CCのスクーターでは心細い面もある。  しかし、無理だった。スクーターが精一杯だった。この一台を買い込んだ後は、ポケットに硬貨しか残らなかった。その硬貨も、約三リッター入るスクーターの燃料タンクをいっぱいにすると、もう二つ、三つしか残らなかった。  が、それでいい。この第一号機は、あくまでも資金調達用の試作品だ。  遠未来や遠過去への本格的な冒険旅行へは、大型のタイム・コンバーターを装着した大排気量の高級車で出掛けるつもりだ。 「ところで、電話で頼んだお金は?」  俺は切りだした。 「ああ……持ってはきたが、今月は苦しいんだ。これがなくなると、明日から生活できない」  泣き言を言いながらも俊男がポケットから出した封筒には、一万円札が五枚入っていた。 「ありがたい!」やはり、持つべきものは、友だ。「それだけあれば、充分だ!」  俺の計画は、こうだ。 �今�からすぐに、このスクーター型タイムマシンで出発して、あさっての月曜日へ出掛ける。そして、スポーツ新聞を買い、日曜日の競馬の結果を確かめ、また�今�へもどってくる。  お分かりだろう。最も古典的、かつ絶対確実、安全有利な投資法である。  月曜には札ビラで債鬼どもを追い返し、外車のフルサイズカーを一、二台は楽に注文できる。  俺の計算によれば、リッターあたり約五十キロ走行できるこの五〇CCエンジンのパワーを利用して、タイム・コンバーターはリッターあたり約四十時間の航時能力を発揮する。  今、土曜の午後四時だから、�あさっての午前中�まで出掛けて�今�へもどってくるには、二リッターもあれば充分だ。  時間航行中は、当然のことながら、�時計�は役に立たない。だから、どれくらい時間線を進んだかは、燃料の減少で計るしかない。  満タン三リッターのスクーターだから、燃料計の針が三分の二になったら、ほぼ四十時間が経過したことになる。もちろん誤差は生じるだろうが、ちょいと�そこ�まで出掛けるだけだから、およその見当がつけば用は足りる。  安い原付バイクの中でスクーターを選んだのは、この燃料計がついているからだ。  計画を告げると、俊男は半信半疑というより、無信全疑といった表情ながら、うなずいた。  俺がうまく時間旅行に成功すれば、元手は莫大《ばくだい》な額にふくらむ。失敗したら……それは、その時のこと。どっち道、五万円がなくなるわけではない。つまり損はしないと分かって、資金の提供に同意してくれたのだ。 「じゃあ、行ってくるぞ」  俺は半キャップのオバン・ヘルメットを頭に被《かぶ》り、ガレージの扉を開いた。  そして、スクーター・ボタンを押し、セルを回してエンジンを始動させた。  五〇CC特有の甲高《かんだか》いエンジン音が響き渡り、タイム・コンバーターを組み込んだマフラーから白っぽい排気煙が吐きだされた。  快調だ。  が、このまますぐに時間移動を開始できるわけではない。助走が必要だった。助走によってエンジン回転を限界まで上げ、そこでタイム・コンバーターを利《き》かして、二次元的駆動力を四次元的推進力に変換するのである。  俺は一気にアクセルを開いた。  スクーターはガレージから走りでた。  すぐ近くに、人通りのほとんどない、ゆるい下りの直線道路がある。そこに乗り入れ、俺はさらにスピードを上げた。  四十キロ……五十キロ……五十五キロ……六十キロ……どうやら、このあたりが限度らしい。  俺はヘッド・ランプと運動しているタイム・コンバーターのスイッチを、ぐいと上げた。  瞬間——  あたりの景色が不意にかすみ、ぼやけた。霧の中へ突っ込んだような具合である。  ヘッド・ランプの光芒《こうぼう》だけが、ぼんやりと見分けられた。  しばらくすると、スクーター、いやタイムマシンを包む霧が、急に暗くなってきた。夜になったらしい。そして、また明るくなる。  五〇CCのエンジンは金切り声を上げ続けている。  と、再びあたりが暗くなり、再び明るくなった。  燃料計を見ると——すでに、残量が三分の二ほどになっていた。反射的に、俺はタイム・コンバーターのスイッチを切った。  ぐらり、とめまいを感じたと思った直後——  スクーターは霧の中から飛びだした。  さっきと同じだ。同じ道を、全速力で走っている。  いや、違う。同じではない。さっきとは、太陽の方角が逆になっている。つまり、今は午前中だ。 (やった!)俺は成功を確信した。  そのまま速度を緩めず、駅近くのニュース・スタンドまで突っ走った。  真新しい、月曜の朝刊が並んでいた。その一紙を、最後の百円玉で買い、俺はぶるぶる震える手で、競馬欄を開いた。 (出ている!)当然のことが、息が詰まるほど嬉《うれ》しかった。  中山二日目——第一レース㈰㈪二四八〇……第二㈬㈭四一〇……第三㈰㈪一二〇〇……第四㈫㈭二〇〇……。  俺は、今や自分でもはっきりと天才だと誇り得るこの頭脳で、配当金を暗算してみた。  第一レースで、元金の五万円は、一二四万円に……それを第二レースに突っ込むと……五〇八万に……その調子で最終第十レースまで続けると、配当金の総計は、実に五十兆円近くなる。  いくらなんでも、これじゃあ、やり過ぎだ。中央競馬会が破産してしまっては、今後の金ヅルがなくなってしまう。  第四レースまでやって、一億二千万ほどになったら、ひとまずやめておこう……などなど……俺は、はち切れんばかりの皮算用を必死で胸にしまいこみ、スポーツ新聞をポケットにねじ込んだ。  そして、足を踏みしめ、スクーターへもどった。シートにまたがり、キイをひねり、スターター・ボタンを押した。  エンジンは元気よく始動した。 (よし!)  と、その時である。俺は、気付いた。目の前が真っ暗になった。  忘れていた。致命的なことを、俺は忘れていた。  俺の発明したタイム・コンバーターは、スクーターを前進させる駆動力を、時間線を前進するための推進力に変換する。しかし……しかし……スクーターには、駆動力を逆転させるための装置、つまりバックのギヤが付いてはいないのだ!  俊男の忠告は正しかった。確かに、確かに……せめて、軽四輪を用意すべきだったのだ。  しかし、気付くのが遅すぎた。  今からでは、もう間に合わない。スクーターにバック・ギヤを組み込むことも可能には違いないが、二日や三日で完成させられるはずがない。そのための部品も道具も、もちろん金もない。  ダメだ! 帰れない。おとついへは、もうもどれない。  かと言って、このまま研究所へノコノコ引き返せば、借金取りの大群にとっつかまるだけだ。なにしろ、今日は、魔の月曜日なのだ。  逃げるしかない。俺はスクーターのアクセルを握った。だが——どこまで? ガソリンは、あと二リッター弱。  俺は、この天才的な頭脳をもってしても判断しかねる難問にぶちあたり、思わず、呻《うめ》いた。 �しあさって�までか……それとも�百キロ�先までか……どちらにしろ、俺には�前進�あるのみだった。  害人ハンター (害人だ!)  路地からふらりと姿を現わした男を見て、私は直感した。  もう、この道十年。ベテランの部類に入る。  いちいち局へ確認など入れなくとも、人相、態度でまず見分けられる。  もちろん、時には誤認することもある。いや、しばしば、と言ってもいい。  しかし、それを気にしていては仕事にならない。  結局は同じことだ。  この私に誤認されるような輩は、どうせいずれは何かをやらかす。そして害人に指定され、駆除される運命にある。それが、私の信念だ。それくらいの自信がなくては、とても駆除員などつとまりはしない。  その人間が社会を傷つけてからでは遅い。疑いあれば、すぐに芽をつんでおくことだ。それだけの権限は与えられている。  私はやや足を早めながら、男の後を追った。  幸い、人通りは少ない。  さり気なく上着のボタンをはずす。そして、腰のホルスターに手を掛ける。  その中に、強力な噴霧式の≪路上A型≫が忍ばせてある。いわゆる、駆除スプレーだ。携帯に便利なように、缶は小型で、しかも平べったい形をしている。  そのノズルの安全カバーを横へ回してから、私はホルスターのストラップを指ではじいた。  男は若い。  その背中に、隠しようのない苛立《いらだ》ちが感じられた。  苛立ち……そう、苛立ちの様子こそが、害人を見分ける第一のポイントだ。  苛立ちとは、即ち不満だ。  その不満が、他人を、そして社会を傷つける。  私は徐々に距離をつめ、男を観察した。  服装がだらしない。ズボンの折り目が消えかかっている。髪の毛もボサボサだ。両手をポケットに突っ込み、肩を揺すって歩く格好など、いかにも反抗的だ。  胸クソが悪くなってきた。同時に、怒りの感情が湧き上がってくる。  間違いない。奴は害人だ。少くとも、益人であるはずがない。  よくも今まで見過ごしにされてきたものだ。たとえ誤認であっても構うものか。こんな奴等が、日本をむしばみ、ダメにする。私には分かる。のさばらせてはならない。許せない。この気持ちは、職務を越えたものだ。日本をますます美しく、豊かに、平和に、と願う者共通の気持ちだ。  こみ上げてくる感情をぐっと呑み下し、私は視線を地面に向けた。見つめ続けて、男の警戒心を刺激しないためだ。  そのまま、一気に男を追い抜く。  そして振り向きざま、引き抜いた路上A型スプレーのノズルを、男の鼻先へ突きつけた。  男が目を剥いた。そして、わめく。 「なんだよ! なにするんだ」  構わず、私は噴霧ボタンを押した。  ノズルから白っぽいガスが吹きだし、男の頭部を包んだ。  男が慌てて口元を手で押さえた。  が、無駄だった。  その手の陰から、嘔吐《おうと》に似た激しい呻き声が洩れた。  男の目が、さらに見開かれた。  そのまま、男は地面へ倒れ込んだ。すぐに痙攣《けいけん》がはじまる。  両脚を硬直させ、両手で激しく胸をかきむしりながら、やがて、男は息絶えた。  私はなお息をつめたまま、静かに、冷たく、男を見下ろしていた。  路上A型に封入されている致死性ガスは、空気中に散布されて後、約十秒で効力を失う。  しかし、安全のため、私はさらに口の中でゆっくりと二十数えてから、息をついた。  我ながら、鮮かな手並みだった。  あたりを見回すと、十人ほどの通行人が目を丸くして遠巻きにしている。  私は上着の内ポケットからサングラスとマスクを取りだし、顔を隠した。  それから手を振って、立ち止まらないよう彼等に合図を送った。  私の指示に、彼等は素直に従った。  様子ですぐに分かる。彼等は皆、益人だ。日本のため、日本人のために生きることを喜びとする人々だ。  そんな彼等を見ると、心が洗われる思いがする。  害人駆除の制度がはじまって、今年で十二年目。この十二年で、日本は大きく変わった。  他人に迷惑をかける人間、自分の利益しか考えぬ人間、全体ではなしに個人の権利ばかりを振り回そうとする人間、それにもちろん犯罪者たち……そうした、社会の調和と安定、平和と幸福にとって有害な人間は、今やこの日本から姿を消そうとしていた。  しかし、まだ完全ではない。  それを完全なものとするのが、害人制度の精神であり、我々のつとめだ。  この社会のどこかに、そうした不逞の輩が住み、暮らし、他人に迷惑をかけているとする。  その場合被害者は、事の大小にかかわらず、どんな種類の問題でも、地区の≪害人判定局≫へ訴えでなくてはならない。  判定局では、訴えの内容をチェックし、それが中傷や虚偽ではないことを確認した上で、逐一結果をランク分けしてコンピューターにインプットしていく。そして、その人間の有害度を算出する。  申し出が事実に反する場合は、逆に、訴人の方に有害指数が加算される。  そして、有害度が一定のレヴェルに達すると、その人間は≪害人≫に指定される。  が、その事は、指定された本人はもちろん、一般の人々にも全く公表されない。  それはコンピューターから直接、我々≪駆除員≫にだけ、極秘裡に通告される。  その瞬間、害人指定された個人は、日本人としてのあらゆる権利を喪失する。そして単なる駆除の対象になり下がる。  我々駆除員は、コンピューターから渡されたデータに従って害人を探しだし、抹殺する。  つまり、社会にとって有害な行為を重ねると、いつの間にか害人に指定され、いつ、どこで、見知らぬ人間に処刑されるか分からないというわけだ。  これを冷酷な制度だと反対した者も当初はかなりいた。  しかし、社会を害する行動さえとらなければいいのだから、それは余りに愚かな批判と言えた。  実際、その批判者たちは、今では全員害人として駆除され、絶滅した。  これで社会が良くならなければ嘘だ。  一年、一年——我々が一人、また一人と害人たちを駆除するごとに、日本はますます良い国になる。素晴らしい社会が実現されていく。  道の向こうから、警官が駆けつけてきた。  警官の数も、制度ができる前の五分の一以下に減っている。社会が平和になったせいももちろんあるが、その前に、警官のほとんどが、なんらかの悪徳によって駆除されてしまったのだ。  私は彼に≪駆除員証≫を示してから、男の衣服を探った。  警官は直立不動の姿勢で、わたしを見守っている。忠実で善良な警官だ。いや、今生き残っている警官は全員が職務に忠実で、かつ善良だ。  男のズボンの尻ポケットから、IDカードが見つかった。携帯通信器で局に照会すると、やはり男は害人だった。  遺体の処理を警官にまかせ、私は現場から立ち去った。そして建物の陰でサングラスとマスクをはずす。任務の性格上、我々は、絶対に素顔を覚えられてはならないのだ。  我々駆除員は、別名≪害人ハンター≫とも呼ばれている。  それから午前中いっぱい、パトロールを続けたが、他に獲物を見つけることはできなかった。  それでいい。獲物が見つからないということは、それだけ日本が、暮らしやすい、素晴らしい社会になりつつあるということだ。  害人の数は年ごとに激減している。  すでに、国民の八割五分以上が益人の認定を受けている。  駆除員といった職務に就く人間が必要なくなる日が、もう目の前だ。  正午、いったん駆除センターへもどった。  仲間たちの顔はどれも明るい。  その笑顔こそが、日本繁栄のひとつの証しだ。他国が、出口のない不況と混乱のさなかにあるというのに、日本だけは、幸福と平和を思うさま享受している。  それも当然のことだ。  害人を野放しにしているような国家が、どうして立ち直ることができようか。  仲間たちとの情報交換を行いながら休息をとり、私はまた午後のパトロールに出動した。  二度ほど�らしい�人間を見かけたが、深追いはしなかった。二人とも、どうにか更生しようと努力している風が見えたからだ。  それくらいの温情は、我々にも許されるべきだ。私はノン・レールを乗り継いで郊外へ出た。  そして、美しい木立ちに囲まれた住宅街をゆっくりと歩きで流していった。  と、そこで、見つけた。 (奴だ!)  名前もすぐに思いだした。黒崎剛三郎——重要指定の害人だ。  かつては有能な政治家として鳴らした男だが、いかんせん余りに私腹をこやしすぎた。  害人に指定されたことを察知してであろう、ある日突然に失踪し、国民の前から姿を消した。  その黒崎が、私兵と思われる屈強な男二人を供に連れ、私のすぐ目の前を歩いているのである。  心臓が高鳴った。  連れの二人も、いずれ害人であろう。  彼等は道を横切り、黒塗りの大型車に乗り込もうとしている。  逃がすものか!  私はベルトの間から、超小型の短機関銃を抜きだすが早いか、彼等に向けて叫んだ。 「害人黒崎! 神妙にしろ!」 �害人�という言葉で、黒崎はびくりと背を震わせ、振り向いた。  連れの男二人が、内懐から、何か得物のようなものを取りだそうとしている。  私は、その三人めがけて、容赦のない掃射を加えた。  一瞬にして、弾幕が彼等を包んだ。  黒崎の断末魔の悲鳴。三人は相次いで、その場に崩折れた。  これでまた、日本はきれいになった。ますます素晴らしい、いい国になった。  私はこみ上げてくる喜びに口元をほころばせ、それでも慎重に銃を構えたまま、三人の方へ近付いていった。  その時である——  上空で、何かが光った。  そんな感じがした。  私は肩を寄せ、日本晴れの、明るい空を見上げた。  また、何かが、光った。  それが微かな光の尾を引き、落下してくる。 (…………?)  私は首を傾げた。  流星か何かだろうか?  しかし、それを確かめるのは私の仕事ではない。天の現象は天文学者にまかせればいい。人間にはそれぞれ�分�というものがある。それを守って生きることが、結局、人々の幸福につながるのだ。  それが日本の美風だ。守らねばならぬ日本人の伝統だ。  私は自分の職務を完遂すべく、地面の黒崎たちを見下ろした。  直後——  私は蒸発した。  いや、日本中が蒸発した。  それを、私が知ることはなかった。  日本中の誰もが、知らなかった。  その日、国際連合秘密理事会において、日本が�害国�に指定され、この地球から駆除される決定がなされたことを——  混線タイム  土曜の午後だった。二時を過ぎていたが、小倉一郎はまだベッドの中でグズグズしていた。  社会人になって、やっと半年。右も左も分からぬ新米サラリーマンである。月曜から金曜まで、ただがむしゃらに先輩の後を追いかけ回して、ぐったりと疲れる。週末はひたすら眠い。  目を覚ましても、起き上がる気力はなかなか湧かない。ぼんやり天井を見つめていると、電話が鳴った。  仕方なしに、毛布の間から腕だけ出して、受話器を取った。 「……もしもし」 「あっ、こいつ。まだ家にいやがんの。何してんだ。早く来いよ」  いきなり、威勢のいい声が、そうまくしたてた。  一瞬、間違い電話かと思った。が、その声には確かに聞き覚えがあった。 「板垣……板垣じゃないか?」 「きまってんだろ」昔とまるで変わらぬ調子で板垣は答えた。 「吉田も、小野も、みんな揃って待ってるんたぜ。おまえが来なきゃどうしようもないじゃないか」 (板垣……吉田……小野……)  忘れられない連中ばかりだった。懐かしさに思わず胸がつまった。  皆、大学一年の時のクラスメートである。四人でよく遊んだものだ。進級し、専攻が変わっても、つきあいは続いた。が、四年になり、ゼミや就職の準備でそれぞれが忙しくなって、いつの間にかグループは解散してしまった。  卒業してからは、一度も顔を合わせていない。その彼等が集まっているという。  一郎は跳ね起きた。 「久しぶりだなあ、みんな、元気か?」  彼は震えそうになる声で訊き返した。  しかし、返ってきたのは、思いもよらぬ言葉だった。 「ナニ寝惚《ねぼ》けてんだよ。昨日も、おとついも、いっしょだったろ」 「え、ええっ?」 「それより、早く来いよ。オレたち、先に≪東風≫へ行ってるからな」 「≪東風≫……? じゃあ、麻雀をやるのか?」 「昨日、約束したじゃないか、二時にハチ公前で待ち合わせるって。まさか、忘れてたんじゃないだろうな、おい! 罰金だぞ!」 (そんな……)一郎には全く覚えがなかった。  そればかりではない。彼はその時思い出した。 ≪東風≫は、彼等が一年生の当時、四人でよく通った渋谷の雀荘《ジャンそう》の名前である。しかし、その後、オーナーが変わり、カラオケ酒場に改装されて、もちろん店名も別のものになってしまったはずだった。  そのことを板垣は忘れたのか? それとも、別の≪東風≫がどこかにあるのか? だとしても、一郎は知らない。どうも、おかしい。 「おい、ちょっと待ってくれ。確か、≪東風≫は——」  言いかけたが、板垣は聞いていない。 「いいから、急いで来いよ。あ、それと、ついでに≪心理学のノート≫、持ってきてくれないか。コピーとって、月曜には返すからさ。じゃあな」  電話は切れた。  一郎は受話器を握りしめたまま、しばし呆然とベッドの上に座り込んでいた。  まるで幽霊にでも出会ったような気分だった。 ≪東風≫だけならまだしも、≪心理学のノート≫とは……。それらは、思い出の中だけにあり得る名前であり、言葉だった。  やはり、間違い電話だったのだろうか?  それとも、混線のいたずらか? (混線……?)  彼は、ぶるっと背筋を震わせた。もしそうだとしても、回線が狂った結果ではない。そうではなく……時代が……時間が、どこかで混線したのだ。そうとしか思えない。 (……しかし、バカな!)  一郎は、我に返った。そして受話器をもどした。  ほとんど同時に、また電話が鳴りだした。 「一郎さん?」  今度は女だった。 「は、はい。そうです」 「あたしよ」  女は言った。低い、どこかそそるような媚を含む声だ。が、≪あたしよ≫と言われても、思い当る相手はいなかった。 「はい」  仕方なしに、固い声で一郎は応じた。  相手はとまどった風だ。 「小倉さん、でしょう?」と念を押してから、「誰か、いるの?」と訊き返してきた。 「い、いえ。一人です」  わけも分からず、一郎は答えた。相手はちょっと鼻を鳴らした。 「まあ、いいわ。そういうことにしておきましょ。それはそうと、明日、何時に迎えに来てくれるの? それが訊きたくて——」 「迎えに?」  その女性の口ぶりは、明らかに親しげだ。単なる親しみ以上のものすら感じられた。しかし、思い当らない。もちろん、≪明日≫を約束した覚えなど全くない。 「どうしたの? 本当に一人なの?」 「ええ、まあ……」 「ドライブのことよ」じれたように、彼女は言った。「自慢の新車であたしをどこかへ連れてってくれるんでしょ?」 「新車?」一郎はうろたえた。「あの、僕、クルマなんて持ってませんけど——」  クルマどころか、一郎はまだ運転免許すら取得していなかった。現在、そのために週二回の教習所通いを続けている最中だった。 「やっぱり、誰かいるのね」  女の声が急に冷たくなった。 「そう? クルマなんて持ってないの? じゃあ、ドライブなんて行けるはずないわよね。さよなら」  ガチャリと電話は切れた。 (なんだ、なんだ? どうなってるんだ!?)  一郎は腹が立ってきた。で、彼も思いきり受話器を叩きつけた。  それにしてもムシャクシャする。  電話局へ文句を言ってやろうか。しかし、一体、どう説明すればいいのだろう。  ただの間違い電話でしょう、と笑われるのがオチだ。しかし——それにしても——  と、またまた、電話が鳴りだした。  一郎は深呼吸を一回してから、おもむろにそれをとった。 「はい、小倉一郎ですが」  低い声で、はっきりと名乗った。 「お、小倉君か。よかった、在宅中で——」  太い男の声だ。はっきりとは思い出せない。が、どこかで聞いたことのある声だった。 「どちらさまでしょう?」  一郎は訊き返した。 「ん! ああ……私は富山だが——」  相手はちょっと心外そうに答えた。 (富山……そう言えば!)  会社の上役だ。そうに違いない。直接の上司ではないが、外事部にそういう名の課長がいる。  フロアが近いので、そのダミ声を覚えていたのだ。 「は、はい!」  一郎は慌てて口調を正した。 「富山課長でらっしゃいますね?」  相手が、電話口でゴホンと大きくせきばらいした。そして、不快気に一郎の言葉を正した。 「キミイ、私が課長だったのはもう五年も前の話なんだがね」 (し、しまった!)  この電話も、やはり混線しているのだ。 「失礼いたしました!」一郎は必死の機転で訂正した。「部長!」  満足の溜め息が聞こえた。どうやら、電話の向こうの世界で、彼はすでに部長の椅子を手に入れているらしい。 「ま、そんなことは構わんよ」  鷹揚な調子を取りもどし、富山部長が続けた。 「それより、キミ、いい知らせだ。実は、昨日の夜、臨時の部長会が開かれたんだが、キミからも希望の出ていたニューヨーク駐在の件、どうやら内定しそうな情勢になってきた——」 「はっ!」  一郎は途端に緊張した。  彼の会社では、ニューヨーク駐在員のキャリアが出世コースに乗るための第一条件と言われていた。だから、誰もがそれを希望する。が、かなえられるのは、同期で一人か二人という狭き門なのである。  もちろん、一郎も、六年か七年頑張って実績を作ってから、その夢にチャレンジするつもりだった。  ということは——この電話は、その、六年か七年先の未来から現在にかかってきてしまったというわけなのだろうか——? 「そこで、だ——」  富山部長が続けた。 「今からすぐに樺島《かばしま》専務の家を訪ねてもらいたい。いや、大丈夫。私の方から、もう話を通しておいた。正式の決定は、月曜の取締役会で出ることになっている。今日は、いわば、そのための最終面接と思ってくれればいい。ま、しかし、固苦しく考えずに、洋酒でも一本ぶらさげて行ってきたまえ。知っとるだろうが、専務はレミー・マルタンしかお飲みにならんからね」 「あ、あの……部長!」 「いいから、いいから。今は私のことなど気にせんでよろしい。まだ辞令が出ると決まったわけじゃないんだからね。あくまでも、キミは候補だ。それを忘れんように。それから、これも言うまでもないと思うが、私から電話が入ったことなど、絶対に洩らしてもらっちゃ困るよ。いいね? もちろん、専務を訪ねる件についても、だ」 「部長——!」 「いいから、いいから。さ、それより一刻も早く駆けつけたまえ。専務はお待ちかねだ。成功を祈ってるよ」 「……あ、あの、あの……」  一郎はあせった。  この電話が、いたずらや間違いではなく……本当に……本当に、時間の混線によるものだとしたら、どうしても確かめておかなくてはならないことがある。  それは——電話の向こう側が、今、一体、西暦何年の何月何日かということだった。  が、あせればあせるほど声がでない。  そして電話は——切れてしまった。  瞬間、目の前がまっ暗になった。 (なんてこった!?)  まさか、毎土曜、毎土曜、レミー・マルタンをぶら下げて、専務宅を詣で続けるわけにはいかないではないか——  彼がしたことは——いや、いつとは知れぬ、しかし、そう遠くはない未来にしでかしてしまうであろう失策は——部長の耳打ちを無視して、一生に一度のチャンスをむざむざ見逃してしまうことであるはずだった。 (なんてこった……)  受話器をもどし、一郎は頭をかかえた。  死にたい気分だった。  自分のせいじゃない。何もかも、この不可解な混線のせいだ。そうは思いたかったが、結果は全て彼個人にふりかかってくる。  と、またもや、電話が鳴りだした。  手をのばすのが怖かった。が、ひょっとして部長がかけ直してきたのかもしれないと思い返し、怖る怖る一郎は受話器を耳にあてた。 「あなた?」  若々しい明るい女の声が耳に飛び込んできた。 「………」息がつまった。しかし、無理に声を絞りだした。「小倉、ですけど」 「あら、何言ってるの。自分の家に電話して�小倉です�もないじゃない」  女は笑った。 (自分の家?)一郎は口をぽかんと開いた。(……ということは!)  どうやら、混線はまだ続いているようだ。 「ねえ、あなた、今夜何がいい? ヨシオが砂場遊びをやめないものだから、遅くなっちゃって。これから買い物なの」 (なるほど……)一郎は独りうなずいた。ヨシオというのが、未来の息子の名前らしい。  思わず、彼は吹きだしてしまった。  なぜなら、彼は、女房の名前よりも先に息子の名前を知ってしまったのだ。 「何笑ってるの? おかしなひとねえ」  しかし一郎の心は、この電話一本で急に晴れた。  確かに彼は、新車まで買ってデートに誘った彼女にはふられるかもしれない。  そしてまた、二度とない出世のチャンスを逃がしてしまうことになるかもしれない。  が、それでもいいような気がした。  それ以上のものを、彼は恐らく、確実に手に入れるのだ。そう信じられるだけで充分だ、と一郎は思った。 「今夜はみんなしてどこかへ出かけよう」元気よく一郎は答えた。「ヨシオも連れて」  その名前を呼んでみたかった。呼んでみて、彼は頬を火照《ほて》らせた。 「えっ? じゃあ、外で食事? まあ、久しぶり! ヨシオも大喜びよ」  電話の向こうで声が弾んだ。 「とにかく、早く帰っておいで。とにかく、早く……」 「バイバイ」という幼い声が聞こえた。  電話を切りたくなかった。もうしばらく、何か話していたかった。  しかし、その時いきなり雑音が聞こえ、回線の切り替わる音が二度三度して、混信は消えた。  それでも——  一郎はまだ受話器に向かってつぶやき続けていた。 「……早く……早く、おいで……」  未来にそう呼びかけていた。 角川文庫『1+1=0』昭和60年10月25日初版刊行